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DC
きみはかわいい
喫茶ポアロのドアをくぐると、いちばん窓ぎわのテーブル席にかわいらしい先客がいた。帝丹小学校に通う子どもたち。少年探偵団といって、宝探しにいったり、事件を解決したりしている。彼らとは何度かここで会ったことがあるので、私を見ると挨拶をしてくれる。
「あっ、お姉さんだ! こんにちは!」
「こんにちは」
元気のよい小さな女の子は歩美ちゃんという。真っ先に私に気づいて、にこにこと嬉しそうにしているのがかわいらしい。すぐ隣の席に腰を下ろすと、カウンターにいた店員さんがこちらにやってくるのが見えた。
「いらっしゃいませ」
米花町のちょっとした有名人――安室さんはここの店員さんで、水の入ったグラスを持ってくると、私の目の前にあるテーブルに置いた。
「今日はにぎやかなんですね」
「ええ、おかげさまで。うちの常連さんです」
どうぞ、と渡されたメニューを眺めてどれにしようか悩んでいると、すぐ隣からからだの大きな男の子が身を乗り出して私に声を掛けてきた。
「姉ちゃん、オレのオススメはクリームソーダだぜ!」
「元太くん、お姉さんは大人の女性ですから、きっとコーヒーや紅茶を飲むんですよ」
「そうなのか? でも、アイスとジュースが一緒になってるからお得だぞ」
「さくらんぼもありますしね……って、ちがいますよ!」
元太くんと光彦くんのやりとりにつられてそちらに視線をやると、テーブルの上には鮮やかなみどり色の液体が注がれたグラスがいくつも並んでいる。上には白くてきれいなバニラ・アイスと真っ赤なさくらんぼ。今日はみんな、同じものを頼んだらしい。クリームソーダなんてしばらく飲んでいない。夏らしいさわやかな色合いと子どもたちの会話に惹かれて、ひさしぶりにあの炭酸が恋しくなった。
「じゃあ、私もクリームソーダにしようかな」
今日はお客さんが少ないので、安室さんは私がオーダーを決めるまで横で待っていてくれた。私と同じように子どもたちの話に笑いながら、クリームソーダをつくるためにカウンターのなかに入ってゆく。
「オメーら……。ったく、今日は宿題しにきたんだから、とっとと片付けちまおうぜ。……お姉さん、うるさくしてごめんなさーい」
その中のひとり、眼鏡の男の子はコナンくんといって、ポアロの二階にある毛利探偵事務所に住んでいる。とても賢い子で、毛利さんのお仕事のお手伝いをしたり、怪盗キッドの現場でも活躍したりしているすごい小学生だ。
「大丈夫だよ。それより、宿題って?」
彼らはテーブルの上にプリントと鉛筆を広げて、その宿題とやらに取り掛かっているようだった。A4サイズの紙に、〈ぼく・わたしのチャームポイント〉と印刷されているのが見える。絵と一緒にチャームポイントを書いて提出することになっているらしい。
「自分のチャームポイントを見つけるんだ。自分ではなかなか気づかないこともあるから、友だちといっしょに考えてもいいって言われて、ここでやってるんだよ」
「へぇー、面白そう」
他のテーブルを拭くついでに子どもたちのところへとやってきた、ポアロのもうひとりの店員である梓さんも、彼らの宿題に興味を示す。
「それじゃあ、私はおでこかしら」
「歩美はこのカチューシャ!」
「僕はそばかすです!」
梓さんに続いて、歩美ちゃんと光彦くんはすぐに自分のチャームポイントを見つけた。
「ピンクのほかにも黄色とか、青もあるの」
「そうだね。そのカチューシャ、歩美ちゃんにとっても似合ってる」
その隣では元太くんが、むずかしい顔をして考え込んでいた。水と氷だけになってしまった空のグラスのストローを、ずるずると啜り続けている。
「おい、思いつかねーぞ」
「元太くんは、そのお腹じゃないですか?」
「いっつもうな重食べてるもんね!」
「オメーは変わらなさそうだもんな」
苦笑いをしているコナンくんにつられて、歩美ちゃんたちもくすくすと笑う。元太くんはそれに気を悪くすることもなく、「おう!」と元気よく答えていた。
「コナンくんは?」
「え、オレ?」
「私も思いつかないなぁ」
「コナンくんはやっぱり、その眼鏡じゃないですか?」
「はは……」
「だね! じゃあ、あとはお姉さんだ」
「うーん……」
チャームポイントといっても、これといってとくに思いつかない。子どもたちや梓さんみたいに何か特徴があるわけでもない、いたって平凡な女だ。
「ナマエさんは、おへその横にあるほくろとか、かわいいと思いますよ」
私が注文したクリームソーダを運んできた安室さんが、ひょいと顔を覗かせて会話のなかに入ってきた。
「え?」
そんなところにあったかしら、と首をかしげる。みんなも頭の横にクエスチョンマークを浮かべながら、私の顔とお腹を交互に見ていた。
「…………」
「…………?」
「……あっ」
梓さんが声をあげ、今度は私と安室さんの顔を交互に見る。心なしか顔が赤い気がするのはどうしてだろう。
「…………」
再度の沈黙。おへその横なんて、自分ではなかなか見ることがない。お腹のお肉が気になることはあるけれど、服を脱いだときに鏡越しに見ることはあっても、はたして気付くだろうか。もしくは、友達とプールや温泉に行ったときに言われることが――とそこまで考えて、私はようやく安室さんの言葉の意味を理解した。
エッチのとき、彼が執拗におへそのあたりをいじってくる理由。かわいいって、そういうことか! そういえば、あるときそんなことを言われた気がしてきた。忘れていた自分が恥ずかしいし、おぼえている安室さんも安室さんだ。しかも、みんなの前でばらすなんて!
「あ、むろさん!」
「あはは」
「あははじゃないですよ! 否定しないから変な空気になってる!」
梓さんは、誰にも言いませんから、と顔を赤くしながらカウンターのなかに逃げてしまった。子どもたちはというと、「姉ちゃん、おへその横にほくろがあるのか?」「わかりました! お姉さん、安室さんと海に行ったことがあるんですね! 水着ならほくろも見えます!」「いいなー! 歩美も海に行きたーい!」とそれぞれ盛り上がっている。わかっていないのなら何よりだが、コナンくんだけ複雑な表情をしているのが気になった。いくら彼が賢いとはいえ、さすがに小学生だし、そこまでませてないよね……? と思いたい。ここに蘭ちゃんや園子ちゃんがいたら、もっとからかわれていたかもしれない。
彼が置いていったクリームソーダを、いったいどんな顔で飲めばいいのだろう。私の顔は、このさくらんぼと同じくらい真っ赤になっているに違いなかった。
2019.08.18
決戦は金曜日
ナマエには年上の恋人がいる。甘いマスクをしているがとても頭の切れる警察庁のエリートで、グレーのスーツがよく似合う大人の男だ。その下に隠れているからだが意外と筋肉質なことにはうすうす気づいていたが、それを確かめたことはない。ときおり彼から香る、公務員らしからぬセクシーなフレグランスの正体を探ったことも。
「えっ、まだやってないの!?」
「ちょっと! 声が大きい!」
「超エリートなんでしょ? まさか不能とかじゃないでしょうね」
決してからだ目当てで付き合っているわけではないが、ふつうの恋人同士なら、自然とそのことを考えるだろう。セックスのことだ。ナマエだって生娘ではないのだし、いつでも準備はできていた。だというのに、気合の入った刺繍入りの上下揃いの下着は、いまだに彼に見てもらえたことがないのだ!
とはいえ、これにはナマエにも責任がある。というのも、そういう雰囲気になるたびに、気恥ずかしさから誤魔化したり理由をつけたりして逃げてきたのだ。だめ、無理、かっこいいのがいけない。顔を見るのも精一杯なのに、あんなひとと一夜を共にしたら、朝まで耐えられる気がしない――彼女のひとりよがりで、あんまりな理由だった。これでは男のほうが可哀想だと思えるくらいに。いつ愛想を尽かされたっておかしくはない。ふたりきりの夜、いいムードになるたびに逃げていたせいか、最近はそういう雰囲気になることもない。たとえば映画を観て、食事を楽しんだ後は彼の愛車で家の前まで送り届けられ、おやすみと軽いキスを交わすばかり。むずむずと、行き場のない欲を持て余すだけの日々だ。なかなか手を出してくれない恋人に、とうとう彼女のほうがじれったくなってしまったのだ。……ぜんぶ、自分のせいだけれど。
そういうわけで、恥を忍んで女友達に相談したのがつい一時間ほど前。しらふじゃ話せないと、お酒の力を借りて何とか口に出した。
「そりゃナマエが悪い」
「むしろ彼氏、よく耐えた」
年上の恋人をその気にさせるのにもやはりアルコールが手っ取り早いと、彼女たちはしっぽりできそうなおすすめのバーやらダイニングやらを教えてくれた。
そんなの、酔わせてしまえばこっちのものだと、ナマエの友人たちは荒っぽいことを言う。終電がなければホテルになだれこめばいいし、タクシーで家に連れて帰るのもありだ。こちらから据え膳にでもなれば、いくらなんでも手を出さずにはいられないだろう。あるいは、酔ったところをこっちから襲うのもいいかもしれない。とにかく、次のステップに進むためのエトセトラ。そんなわけで意を決して、週末の夜に何とか会う約束を取りつけた。
いま、彼女の隣には、ひさしぶりに顔を合わせる恋人の姿がある。着ているスーツはくたびれているように見えるが、それでも皺ひとつない。じろじろと見ていると、「今日は定時であがらせてもらったんだ」などとちょっと困ったように言う。ゆったりとした動作で酒をあおり、余裕たっぷりに見えるのが憎たらしい。ナマエの心臓が落ち着かなげに騒ぎはじめた。
なのに、せっかくのチャンスが居酒屋なんて!
いや、これには理由がある。ほんとうは先週のうちに彼女が予約を入れていたワインバルに行く予定だったのだが、彼の仕事が長引いておじゃんになってしまった。せっかく勇気を出して誘ったのに、と落ち込んでいたのも束の間、「このあいだのお詫びをさせてくれ。もちろんこっちの奢りで」と言われれば頷くほかない。お店選びは彼に任せたけれど、まさかそれがこんな焼鳥屋だとは夢にも思わなかった。
とはいえ、年上のスマートな恋人らしく、意外にも味やサービスは素晴らしかった。よくよく客層を見れば悪酔いしたサラリーマンの姿はなく、小綺麗なスーツに身を包んだビジネスマンのグループや、親しげに顔を近づけて談笑する男女の姿がよく見える。なるほど、隠れ家的な小洒落た店というわけか。個室じゃないのは残念だけれど、カウンターで肩を並べているうちに自然と距離は近づいた。
フォアグラと鶏レバーのパテをバゲットといただき、まるごと焼いた玉ねぎを頬張る。メニューに書かれたワインやビールは高価なものじゃないけれど、料理がおいしいのでついたくさん飲んでしまう。いつもなら三杯目を頼むところだが、今日は我慢して合間にピクルスをつまみながら、ちまちまとワイングラスを傾けた。
「よく来るの?」
「ん?」
「こういうお店。こんなところがあるなんて知らなかった」
こんな、いかにもデート向きのお店なんて。彼のことだ、前の恋人と来たことがある、なんて間違っても言わないだろうけれど、情報の出所が気になった。
「ひとりで来るのにちょうどいいだろ」
「え」
「おいしいから、一度連れてきたかったんだ。気に入った?」
もちろん、と彼女は何度も首を縦に振った。こんなにおいしくて素敵な雰囲気の焼鳥屋なら大歓迎だ。ナマエの反応に満足したらしく、男は「よかった」と目尻を下げて笑った。――もしかして、酔ってるのかしら。普段よりもよく笑う彼は、たしかにアルコールで上機嫌になっているようだった。
料理もお酒も存分に楽しんだあとは、混みあってきたころを見計らって二時間もしないうちに店を出た。どちらかといえば食事がメインだったから、正直飲み足りない気持ちだった。それは彼のほうも同じだったらしく、ふたりの足は自然と次のお店を探していた。しかし、金曜の夜だ。客の呼び込みはカラオケ店や大衆居酒屋ばかりで、入ろうとするお店はどこも満席だった。今日はもともと飲むつもりだったから車は置いてきたというし、送り狼は望めそうにない。かといって終電まではまだまだ時間がある。
「なあ、ホワイトアスパラ、まだ食べたい?」
「えっ、食べたい」
「じゃあ、俺の家で飲みなおすか」
「えっ」
二回も「えっ」を繰り返したナマエに、男はからからと笑う。彼のほうから申し出てくれるなんて、願ったり叶ったりだ。さっきのお店で食べ損ねたのを掘り返されて、ちょっぴり居た堪れなくなる。ホワイトアスパラのフリットなんて、滅多にお目にかかれるものじゃない。――いや、そうじゃなくて。
「簡単なのでよければ」
そうして何度か訪れたことのある彼のアパートの部屋に転がり込んだものの、やはりいつ来ても緊張してしまう。意識しないように和室で待つのも一苦労だったが、さいわい彼も酔っているのでこちらの様子には気づいていない。家に着くなりジャケットを行儀悪く放り、キッチンに立った彼は約束のホワイトアスパラのほかに、新じゃがと新たまねぎもフリットにしてくれた。
「はい。缶ビールしかないけど」
「いえいえ。ありがたくいただきます」
「それじゃ、乾杯」
軽く缶同士をぶつけ、プルタブをひいてよく冷えたビールをいただく。他の人の目を気にしなくていい空間で飲むお酒は、外で飲むのとまた違ったよさがある。料理を手でつまんでも誰にも怒られないのだ。ナマエだけがフリットを口にし、男は先程からずっとビールばかり飲んでいた。心なしか、外で飲んでいたときよりも顔が赤いように見える。
いつのまにかネクタイは外されていて、ワイシャツのぼたんもいくつか開いている。眦と耳を染めた、アルコールのまわっているのであろう男が、目をとろんとさせて彼女を見つめている。大きなたれ目がゆるむさまは、今まで見たことのない様相を呈していた。こんな顔、彼女は知らない。
……あれ。ベッド、こんなに近かったっけ。
男のすぐ後ろに、彼がいつも眠っているベッドがある。その隣にいるナマエも、やはりベッドの近くに腰を下ろしていた。こんな、あからさまにベッドのそばに座るなんて、と意識したとたん、かっと顔が熱くなった。とっさに目を伏せるが、スラックス越しでもわかる細く締まったウエストやがっしりとした太腿が視界に入り、思わず泣きたくなってしまう。こんなのはあんまりだ。こんな、隙だらけの格好で、自分にしか見せないような顔をして誘ってくるなんて。ナマエは今度こそ堪えきれなくなった。今夜、この男のすべてを知らなければ気がすまない――たとえばベッドのなかで、どんな表情を見せるのか。
ふわふわした意識の中で手を伸ばすと、彼女よりも大きな節くれ立った手がかんたんに捕まってくれた。さらりとかさついた手のひらの感触に、なにもかも委ねてしまいたくなる。ベッドはすぐ後ろなのに、彼はじゃれあいの延長みたいな触れかたで首のうしろをなぞったり耳をひっかいたりするだけだ。それだけでも彼女の唇からは熱い吐息がこぼれ、その先を求めてしまう。たまらなくなって白いワイシャツに縋りつくと、男の体臭と汗のにおいがした。
「降谷さん」
「うん」
「わたし……」
それ以上は言えずに、唇を薄くひらいてキスをねだる。彼女の腕に引き寄せられた男が、濡れた音をたてて唇を食んだ。これじゃあどちらが誘っているのかわからない。 深くまじわったあと唇が離れても、彼女は男の首に腕をまわしたままぴったりとくっついていた。その頬は熱にうかされているかのように赤い。
「これで俺も酔った甲斐があったな」
するりと伸びた手が彼女の喉をくすぐり、衣服越しに胸を掠める。期待にみちていたそこはびくりと大袈裟に跳ねて男を愉しませた。ぼうっとする頭で、いつのまに酔ったのだろうと考える。今日はあまり飲んでいないはずなのに。……彼のほうが、よっぽど。
彼女の心を見透かしたように、男がうつくしく目を細めた。その顔はもう赤くはない。あれ、とわずかに目を見開いた彼女を、男はうれしそうに見下ろしている。欲を孕んだ青と目が合った瞬間、ぞくりと肌が粟立ち、全身が期待しているのを感じた。あれ、酔っているのは。
「アルコールの力を借りないとだめなのは同じだっただろ」
彼だってもうずいぶんと前から、こうなることを望んでいた。
2020.03.15
春はまだかよ
休憩がてら席を立ってコーヒーを買いに出ると、あまり顔を合わせたくない人物と鉢合わせてしまった。苦手なわけではない。ただ、休憩が休憩にならないだけで。しかし、尊敬する上司であることに変わりはない。
「降谷さん。お疲れさまです」
「ああ、お疲れ」
今日は丸一日庁舎にこもりっきりだ。チェーンのコーヒーショップに行ってもよかったのだけれど、そこまで行く気力がなくて結局近くで済ませることにした。彼も同じことを考えていたのだろう。自販機の前に立ち、どれにしようか悩んでいるらしかった。男のほうを振り返り、意見を欲している。
「どれがおすすめ?」
「そうですね……これとか、すっきりして目が覚めます」
「よし」
がこん、とボタンを押して出てきたのは無糖のブラックコーヒーだ。はい、とそのまま目の前に差し出され、思わず受け取ってしまう。やられた。
「あ、ありがとうございます」
そのあともう一度ボタンを押すと、アイスココアが落ちてくる。取出口から拾い上げると、プルタブを開けてすぐ飲みはじめた。甘いのなんて珍しい。風見ならまず選ばないだろう。
珍しいといえば。
「珍しいですね」
「ん?」
部下の視線を追って、降谷は自分の胸のあたりに目を向けた。春の色をしたネクタイがぶら下がっているのが見える。
「ああ、これか」
「明るい色を着けているのは、あまり見たことがなかったので」
風見個人の認識では、この上司は私服に明るい色を取り入れても、仕事着に関しては地味な色味を好むのだと思っていた。いつも同じグレーのスーツを着て、ネクタイの色は青や緑のような、寒色しか見たことがない。
「変か?」
「いえ、よくお似合いです」
それは男の本心だった。物珍しくはあるものの、それは彼によく似合っている。外には着けていかないだろうが、だからこそ今日のような書類仕事を片付ける日に選んだのだろう。
「妻がプレゼントしてくれてな」
「……奥様が、ですか」
「ネクタイなんてベタだとか何とか言ってたけど、君から見て違和感がないならよかったよ」
「はあ」
気の抜けた返事しかできない。どうも惚気られている気がする。その自覚があるのかはわからないが、風見の中の降谷はそんなことを口にするような男ではなかったから、きっと惚気話なんだろう。
まあ、春だから仕方ない。
「今日、風見にネクタイを褒められたよ」
帰宅してすぐ、降谷は彼女にそのことを告げた。普段よりもずっと早い。一日中庁舎に缶詰めだったから、文字通り家と職場を往復するだけの日だった。
「朝一で気づいてたみたいだったけど、声をかけられるとは思わなかった」
「えっ、話しかけられたくなかったの?」
「いや。嬉しかったよ」
「じゃあよかったじゃん」
贈られたのはずいぶんと前のことだ。決して忘れていたわけではない。風見が思っていたように、着けていく場所がなかったのだ。
それは、ネクタイをプレゼントしてくれたときのこと。誕生日でも記念日でも、クリスマスでもバレンタインでもない日だった。久しぶりに会ったかと思えば、突然手渡されたのだった。
「ん?」
「プレゼント。似合いそうだと思ったからあげる」
箱を開ける前から予想はしていたが、思っていたとおり中身はネクタイだった。それも、自分ではなかなか選ばない濃いピンク色だ。
「ありがとう。急だな」
「そう? でも、零くんもなんでもない日にいろいろくれるよ」
無意識だった。なんとなくこれは喜びそうだとか、前にほしいって言ってたなとか、思いつきであれこれ渡していたが、本人にそのつもりがなかったので少々驚いた。あれらをプレゼントとして受け取ってくれる彼女の人格だ。
「ベタベタすぎてあげたことなかったなあと思って」
「ベタベタ?」
「男の人へのプレゼントにネクタイって、ベタすぎない?」
「そうか?」
安室透は、お客様からのプレゼントは一切受け取っていなかった。野菜や果物のお裾分け程度ならいただいていたが、彼のもとにはハンドクリームやらハンカチやら、かわいらしい雑貨類が集まりがちだった。もちろん、それらはあらゆる理由をつくって丁重にお断りしていたが。
バーボンへは、時計やジュエリーなどの高価なアクセサリーが届けられた。あるいは有名ブランドのフレグランス。それは情報屋として働く彼への報酬と、贈る側の人間の趣味に他ならなかった。
しかし降谷零はどうだろうか。彼女はベタだと言うが、ネクタイなんて今までに貰ったことがない。ありふれた日常を与えてくれるのは彼女が初めてだった。部下の困惑は恐らくそれだろう。自分でも、思っていた以上に浮かれていたらしい。どこにでもいる、ふつうの男だった。
「持ってるのと比べると派手かも。あんまりそういう色の持ってないよね」
「持ってないなあ」
「……仕事用にと思って選んだけど、やっぱり派手すぎるかな!?」
いまさら不安になったらしい彼女が慌てふためくのを見て、降谷は噴き出しそうになった。ここまできてそれを言うのか。
「いいんじゃないか。春だし」
桜の時期に着けるくらいは、きっと許されるはずだ。
2020.03.17
恋人たちのクリスマス
十二月某日
お仕事に行く零くんを玄関まで見送る。サラリーマンのような鞄は持たないので、大抵は手ぶらで立つことが多い。今日は冷え込むようだからスーツの上にコートを羽織っている。それでもまだ首元が寒そうだったので、去年のクリスマスにあげたストールを取りにクローゼットを覗いた。
「これ、なに?」
持ってきたストールを渡すと、代わりに手の中に何かが落とされる。見たところキーホルダーのようで、どこかへ行ったお土産だろうかと首をかしげた。お寿司に見えなくもないが、なんだろう、これは。
「もうすぐクリスマスだろ」
「うん」
「ツリーのオーナメント。……好きそうだと思って」
我が家にはそこそこ大きなクリスマスツリーがある。テーブルの上に飾れる小さなサイズでもよかったのだけれど、「どうせなら大きいほうがよくないか?」という鶴の(零くんの)一声により、昨年の今頃にインテリアショップにて、それなりに大きい、いいお値段のものを買ったのだ。実際に部屋に飾ってみるとお店で見たときよりもかわいいし、何よりテンションが上がる。値段以上の価値があるのでコスパがよすぎる。
子供の頃から大きいツリーに憧れていたので、実はものすごく嬉しかったのは内緒だ。暇さえあればツリーを眺めているので、零くんにはばれている気もする。
今年はつい先週リビングに出したばかりで、普段はクローゼットの奥で眠っている。去年の後片付けの際にオーナメントは種類ごとに分けようと言った零くんのおかげで、ひとつも失くさずに、綺麗に飾り付けをすることができた。
それにしてもお寿司のオーナメントとは、このメーカーはいったいどういうつもりで作ったのだろう。こんなオーナメントがあるなんて知らなかった。クリスマスツリーにぶら下がる寿司はどう見てもシュールに違いないが、白身魚なのがせめてもの救いだ。主張が強すぎなくていい。
こんなものどこで見つけてきたんだろうか。真面目な顔でオーナメントを選び、お会計をする零くんを想像すると少し面白かった。
「ありがとう。飾っておくね」
「ああ」
私がお寿司をお気に召したと思ったらしい零くんは、うっすらと表情をゆるめた。お寿司が好きというわけではなかったけれど、零くんが私のために買ってきてくれたのが嬉しかった。
零くんが仕事へ行ったあとにさっそく飾ってみると、意外にもお寿司のオーナメントはツリーに馴染んでいた。
ツリーを買いに行ったときにピンクかゴールドかで押し問答になり、最後に折れたのは零くんのほうだった。もしかしたらかわいさに抵抗するために、あまりかわいくないモチーフを選んだのかもしれない。でも、結構似合ってるよ、これ。
早く零くんにも見せてあげたいな。
びかびかと光る派手な電飾とともに、大好きな彼が帰ってくるのを待ち続けた。
*
「本当にごめん」
今年のクリスマスは一緒に過ごせそうにない、と告げた零くんは、この世のすべてに絶望したような、とても暗い顔をしていた。しまいには俯いて、こちらを見ようともしない。私の視線から逃れようとするので、いつもと逆だなぁ、なんて呑気なことを考える。彼の仕事が激務だと知ったのは付き合いはじめてしばらく経ってからのことで、去年のクリスマスはかなり無理をして都合をつけてくれたのだろうと、あとになってから悟った。
私がだんまりを続けているので、怒っているのだと勘違いしている零くんは、おそるおそるといった様子で顔を上げた。視線が交わると、大きな青い目をいっそうまるくする。
「……怒ってないのか」
「ぜんぜん。怒ってほしかった?」
「いや……」
もっと喚かれると想像していたらしい。むかしの私だったらわがままを言って困らせたかもしれないけれど、さすがに大人なので、仕方がないと思えるようになった。寂しくないといったら嘘だ。でも、零くんの誠実さを知っているから、なんてことはない。
気を取り直すように、零くんはゆっくりと口を開いた。
「そのかわり、年末年始は休みもらえたから」
「本当?」
「……多分」
「うそうそ。気にしなくていいよ」
ケーキもチキンも、クリスマスにしか食べちゃいけない、なんてルールはない。好きなときにごちそうを用意して、遅めのクリスマスを過ごそう。
「ツリー、年明けまで飾っておこうね」
一緒に過ごせるその日まで、クリスマスツリーにはもう少し居座っててもらおう。
一月二日
帰るころには日付どころか年が変わっていて、年末を一緒に過ごす夢は夢のままに終わった。怒っているだろうか。あるいは今度こそ愛想を尽かされたかもしれないなどと思いながらそっと家の鍵を回すと、部屋の中は暖かく、人の気配があった。
「あ! おかえりなさい」
「ただい、ま……?」
「なんで疑問系?」
寒かったでしょ、と部屋に招き入れられ、あれよあれよという間にこたつをすすめられる。コートを脱ぎ、言われるがまま中に脚を入れると、じんわりとしたぬくもりに包まれた。
「はい、年賀状来てたよ。風見さんと、あとは……黒田さんって人からも」
他にも数枚、新年の挨拶が綴られた葉書が束になっている。輪ゴムがかかっているところを見ると、元旦にまとめて届けられたのだろう。うちにあるということは、こちらが送ったものも届いているはずだ。
「駅伝見る? あっ、ケンタ頼む? 今日帰ってくるのがわかってたらケーキ買って来たんだけど……二日だとまだどこも開いてないよね」
「いや、大丈夫だ」
「そう?」
正月の強い日差しがリビングに差し込み、クリスマスツリーを照らしている。テレビからは駅伝の中継が流れ、手元には上司と部下からの年賀状がある。夢の中にいるような異様な光景に少しばかりめまいがした。仕事の疲れが出てきたのかもしれない。
「……今って二〇二三年だよな?」
「時差ぼけでもしてるの?」
笑う彼女を見て、つられてこちらも笑う。どうやら本当に年を越していたようだ。
びかびかと光るクリスマスツリーに見守られながら駅伝を眺めるのは不思議な感覚だった。約束どおりクリスマスと正月をまとめて楽しむつもりで、リビングに飾ったまま帰りを待っていてくれたのだろう。
今日からは本当に休みだから、チキンとケーキを買って、おせちも準備しよう。それから、彼女へのプレゼントも。この部屋に入ってすぐ、ツリーの下にプレゼントらしきものがあることには気づいていた。今夜彼女が眠ったら隣に置いておこう。実はクリスマスよりも前に用意をしていたから、ようやく渡すことができる。
「零くん。あけましておめでとう」
「おめでとう。今年もよろしく」
この一年もきっとすばらしいものになるだろうという予感を抱かせるには十分な、新しい日だった。
2022.12.25 -> 2023.01.16
忘れ物
視界に入った明らかな男物に、降谷は身体を拭くのも忘れてじっと洗面台を凝視した。ちょうど目線の高さの位置に、スタイリング用のハードジェルが見える。風呂に入る前は気づかなかったが、どうやらずっとそこにあったようだ。
彼女はジェルやワックスよりもヘアオイルのほうを好んで使用していたはずだが、目の前にあるこれは今までに見たことがなかった。もしかしたら美容室で薦められたのかもしれないと思ったけれど、最後に行った日付のことを考えるとここまでは減らないだろう。
心をよぎるのは疑念だ。だが、お世辞にも嘘をつくのが上手いとはいえない彼女が、自分に隠れて浮気ができるとは思えない。ぱたりと、毛先から落ちた滴が肌を滑る感覚で我に返り、降谷は用意されていたバスタオルに顔を埋めた。
先に入浴をすませていた彼女は、脱衣所から出てきた男の姿を見つけるとドライヤーを差し出した。降谷は一瞬考えて、それからベッドの下にどかりと座る。髪を乾かしてほしいという男の要求を察した彼女は、渡そうとしていたドライヤーを持ち直して電源を入れた。
自分よりも小さな手に髪を梳かれる心地よさに目を閉じながらも、もやもやとした気持ちは晴れない。口数が少ないのを疲れているのだと勘違いした彼女は、手早く髪を乾かし終えると、早く寝るようにと男を急かした。
シングルのベッドは大人の男女二人が眠るには窮屈だ。もともとは彼女が一人で寝ることを想定して購入したものだから、同じ一人用でも、降谷の自宅にあるベッドのほうがもう少し広い。ただ、落ちないようにと理由をつけて彼女を抱きかかえて眠ることができるので、これはこれで嫌いではなかった。
ベッドの上にいる彼女の隣に腰掛け、かわいらしい色合いの寝具を見つめる。さあ寝ようという雰囲気のさなか、男は意を決して口をひらいた。
「なあ、あのジェル……」
「え? ジェル?」
「洗面所に置いてあっただろう」
突然話しかけられた彼女はしばらく考え込み、それから「ああ!」と思い出したように声を上げた。どうやら思い当たる節があるようだ。
「前に友達が泊まりにきたときに置いていっちゃって、次に会うときに返すんだけど、あそこにあると忘れそうだよね」
「友達」
「使ってもいいよって言われて。でも、私は使わないからなぁ。もしかして使った?」
「……いや、使ってない」
「そうなの?」
彼女はふしぎそうに首をかしげながら、置いてあったスマートフォンを手に取って画面を操作しはじめた。忘れないうちにその友達に連絡を取って、返す段取りをつけるのだろう。こうして目の前でスマートフォンを弄るのは、後ろめたさが何もない証拠だった。
「はあ……」
さっきまでの余裕のなさをごまかすように、彼女の肩に体重を預ける。安堵したのが半分と、そこまで思い至らなかった自分を恥じるのが半分。彼女のことになると、どうも空回りをしがちだ。
「なに?」
「……べつに。何でもない」
メッセージを送り終えた彼女といっしょに、狭いベッドにもぐりこんだ。ごく自然な流れで脚を絡めると、足先がすこし冷たくなっていることに気がついた。女性の身体は冷えやすいから、早く温まるようにと後ろから抱き込んだ。
こんなに隙間なくくっついても狭苦しく感じてしまうのは、ベッドが小さいからにほかならない。降谷が余計な心配をしなくてすむように、彼女が友達を連れ込むことがないように、早く同棲を申し入れて大きなサイズのベッドを買わなければ。
2023.04.26
バニラ・アイス
どうしてこんなことになったんだろう、と跳ねる心臓をなだめながら、ふかふかのカーペットの上を歩いてゆく。夢なのか現実なのかわからなくて、こんなのはやっぱり夢かもしれない、と考えた。前を行くそのひとが振り返り、数歩どころか数メートル後ろにいるわたしを見て、不審そうな視線を向ける。
「なんでそんなところにいるんだ」
「あんまりこういうホテルって泊まったことなくて……」
ふだんはビジネスホテルにしか縁がないので、こういう、いくつか星のついていそうなホテルは気後れしてしまう。自慢じゃないが、こんなところには泊まったことがない。財布にいくら入っていたのか思い出せず、あとでATMに寄ろうと決意した。
超がつくほど忙しい恋人からひさしぶりに連絡があったのがちょうど一週間前。突然鳴り出した電話に、本を読みながらのんびりと休日の夜を過ごしていたわたしは若干の煩わしさを感じた。だけど、スマートフォンのディスプレイに表示された名前を見て、それもどこかに吹き飛んでしまう。
「は、はい」
こたえた声は緊張のためにどこか硬質な雰囲気を纏っていた。すぐに悟られ、電話口の向こうで笑う気配がある。
『何してた?』
「本読んでた。前に買ったの、掃除してて見つけたから読み返してて……、どうしたの?」
彼から連絡がくるのは非常に稀で、それは単にこちらの様子を知りたい時とか、用事がある時とか、声を聞きたくなった時とか、理由はいろいろある。わたしが彼に電話をかけて出てくれるのと、彼から連絡がくる頻度は、たぶん同じくらいだと思う。向こうが気づいているのかは知らない。
『今度の土曜、空いてるだろ』
「空いてるけど……」
わたしの仕事は多くの一般企業がそうであるように、基本的にはカレンダーどおりの休日だ。繁忙期などは出勤することもあるけれど、いまはその時期ではないので週末はまるっとお休みだ。
その日はとくに予定もなく、それを伝えた記憶はないけれど、彼がわたしのスケジュールを把握しているのはめずらしいことではないので、深く考えずに話の続きを待った。
『前に行きたがってたホテルのスイーツビュッフェ、まだ行ってないよな?』
「……あっ!」
そういえば前にそんなことを話した気がする、とぼんやりした記憶がよみがえる。言われるまですっかり忘れていた。そういう話をしたことも、スイーツビュッフェのことも。情報発信サイトで見かけたのを、わたしが行きたいとかなんとか言ったのだろう。憶えていてくれたのが心地よくて、ゆるむ頬を抑えずにいると、静かなところにいるらしい彼が言葉を続けた。
『それ、予約しておいたから。軽食もあるみたいだから十二時で取ってあるけど、もっと遅いほうがいいならずらすよ』
「えっ! な、なんで? どうしてそんな突然?」
『もう誰かと行った?』
「まだ! えー、うそ。すごい、嬉しい!」
びっくりしたけれど、それよりもときめきが勝る。わたしは単純なので、一ヶ月まったく連絡がとれなくても、一回の約束ですぐほだされてしまうのだ。何よりもわたしと行くことを選んでくれた(……というと自意識過剰なのかもしれないけれど、事実、そうなのだから舞い上がりもする)のがうれしくて、遠足前の子どもみたいにはしゃいでしまう。
待ち合わせの時間と場所を決めて、少しの雑談をまじえたあと、わたしは気になっていたことを訊ねることにした。そんなことかと思われるかもしれないけれど、彼に聞くのがいちばん確実で間違いないはずだ。
「あの、ちゃんとした格好のほうがいいのかな?」
『ちゃんとした格好?』
「いちおうホテルだし……ジーンズとかじゃだめかな?」
『そんなに気にしなくていいんじゃないか? 変な格好もしてこないだろ』
「しないけど……」
じっとしていられずに部屋を歩きまわり、自然と足が向かった先のクローゼットを覗く。そもそもデートだし、とか、たくさん食べるならワンピースがいいのかな、とか、手持ちの服を見ながら当日のコーディネートを考えた。遊園地に行くわけじゃないので、パンツは真っ先に候補から外した。せっかくだし、多少ヒールのある靴を履いてもいいかもしれない。
『じゃあ、土曜日に。何かあったら連絡してくれ』
「絶対空けます」
断言すると、彼は短く笑った。
その日はもともと予定はなかったし、何か用事が入ることがあっても彼との約束のほうが先だ。それに、自分にその約束よりも優先するべき用件が舞い込むとは思えない。体調は万全の状態にして、万が一にも風邪なんかひかないようにしよう。
『あ、そうだ』
言い忘れたことでもあるのか、彼は会話が終わりそうなタイミングで思い出したように声をあげた。わたしが聞くよりも先に、答えがかえってくる。
『ホテル。とっておいたから、そのつもりで』
「……は」
ホテル、とつぶやいた声が脳に届くまで、かなりの時間を要したように思う。じわじわと意味を理解するころには、通話はとっくに終了していた。叫びだしそうになるのを必死に堪えて、ごろんとベッドに横たわって脚をばたつかせる。放ったスマートフォンはすっかり沈黙して、まだ熱をもったままでいる。ぼんやりと天井を見つめていると、さっきまで話していた彼の声が頭の中で聞こえてくるような気がした。
「ここでいいんだよね……」
わたしは心配性で、待ち合わせの時間よりも早く指定された場所に来るタイプの人間だ。時間ちょうどに相手が姿を現さないと不安になるし、本当にここで合っているのか、そもそも今日なのか、メールのやり取りを何度も確認してしまう。
彼とはホテルで直接落ち合うことになっていたので、約束の十五分前にロビーに着くよう計算して家を出てきた。初めて来る場所だったし、予約をしてくれているので遅れるのは申し訳ないと思ったから、念には念を入れた。なんなら、実は三十分前には着いていたのだけれど、あまりにも早すぎたので化粧室へ行き、ファンデで軽く肌を整えリップを塗りなおした。完璧である。
とはいえ、まだ二十分ほど時間がある。ぼーっと突っ立っているとホテルのひとに声をかけられそうだったので、近くのソファに座って彼を待つことにした。こういう時、どうやって時間をつぶすのが正解なのかわからないわたしは、手慰みにスマートフォンを取り出してメールやSNSを確認した。特になにをするわけでもなく、すでに読んだメールをもう一度読み返し、ニュースサイトをチェックするも、すぐに飽きてディスプレイをオフにした。
「なんだ、早いんだな」
「ひゃい!」
気配もなく突然耳元で聞こえてきた声に、わたしは大袈裟にびっくりして肩を跳ねさせた。わたしと同じくらい彼もおどろいたようで、めずらしく見開かれた(あ、かわいい)瞳と目が合う。
「零さん」
「荷物はそれだけ?」
「あ、うん。着替え持ってくるの面倒だったから、明日もこれでいいかなって」
彼の視線が横に置いていたバッグに注がれたので、わたしは着ていたワンピースを指差す。夏を目前に控えているが、幸いにも気温はそれほど高くはない。荷物を増やしたくなかったのとコーディネートを考えるのが面倒で、明日も今日と同じ服を着るつもりだった。
「かわいい。似合ってる」
「へ」
「そっちのほうだけ預けていくか」
「あ、うん」
今、さらっと褒められた気がする。あまりにも自然だったのでうまく反応ができなかったけど、どきどきして心臓がひっくりかえりそうだった。財布やハンカチを入れているバッグとは別に、お泊まりセットの入っているほうはフロントで預かってくれるらしい。
先を歩く彼の後ろをついてゆきながら、落ち着きのない自覚はあるものの、視線はちらちらと辺りを見回してしまう。大きな明かり取りの窓からは陽光が降り注ぎ、庭のみどりがきらきらとかがやいてみえる。ラウンジを抜け、奥まった場所に位置するフロントに向かいながら、思ったよりもやばいところに来てしまったと背中を変な汗が伝う。
「貸して」
わたしからバッグを取り上げると、彼はそれをフロントのスタッフに渡してなにか喋っている。なにか、としかいえないのは、緊張のあまり会話が耳に入ってこないからだ。すこし離れたところから見守っていると、手続きを済ませたらしい彼が振り返ってこちらへとやってくる。
「もうチェックインしたの?」
「ああ。荷物だけ部屋に置いてくれるよう頼んでおいた」
ほら、とカードキーを見せられ、次にここへ戻ってくる時はフロントに顔を出さなくてよいのだと悟る。
スイーツビュッフェの会場となるのはさっき通り過ぎたラウンジで、こういう時だけ抜け目のないわたしは事前にホテルのサイトでメニューをチェックしていたので、どんなものが出てくるのかしっかり調査済みだ。料理の写真がいっしょに載っていたのも、ますます当日が楽しみになった。
それでも。
「……!」
目の前に広がる光景に色めき立つのも無理はなく、こういう時、わたしは自分が女子なんだと再認識する。色とりどりのケーキやタルト。アイスクリームにチョコレート、マカロン。それに、スイーツだけでなく、スープやサンドイッチなどの軽食もあるらしい。
女性でも甘いものが苦手なひとはいるし、最近はスイーツ男子と呼ばれる異性がいるのも知っているけれど、わたしは大多数の女子に分類されるので、こういう場所ではわかりやすくテンションが上がってしまう。ただ、浮かれているとばれるのはすこし恥ずかしかったので、平静を装って〈RESERVED〉のカードが置かれた席に着き、まずは飲み物をオーダーすることにした。ドリンクも飲み放題だというので、わたしと彼はふたりとも紅茶を頼んだ。あとでコーヒーも試してみたい、と考えながら。
飲み物が運ばれてくるまでのあいだ、ちらりと彼を見ると、彼はわたしの思ってることがすべてわかっているような顔をしていた。早く食べたい、というのが思いきり表情に出ていたらしい。からかうように笑われてしまい、結局恥ずかしい思いをした。なけなしの意地で紅茶が来るのを待ち、それを飲んで気分を落ち着けてから席を立った。
「どれにするんだ?」
「とりあえずショートケーキから……あ、このタルトもおいしそう。でもチョコも気になるし、どうしよう、すっごく悩む……」
お皿を持ったまま数分は悩んでいるわたしに、痺れを切らした彼が声をかけてきた。何も載っていないわたしのお皿とは対照的に、チーズケーキとチョコレートが盛られているのが見える。なんて控えめなのだろう。
「まあ、時間はあるし、いろいろ食べてみたらいいんじゃないか?」
「うう……」
白いキャンバスに真っ赤ないちごのコントラストが美しいショートケーキは、鉄板中の鉄板だ。みずみずしいブルーベリーがたっぷりと載ったタルトにも心惹かれる。海外の有名なショコラティエによるチョコレートは、温度管理の徹底されたショーケースの中で宝石のようにきらきらと輝いている。なんという贅沢だろう。お値段分の価値はあるということか。事前にチェックしていたビュッフェの価格は、今後しばらくは節約しようと心に誓うような金額だった。わたしは散々迷ったあげく、最初に気になっていたショートケーキとブルーベリータルト、そしてそのとなりに鎮座するシュークリームをテーブルに連れて帰ることにした。
「仕事は落ち着いたの?」
テーブルを挟んで顔を突き合わせ、この日初めて会話らしい会話をする。訊ねながら、ショートケーキを口に運ぶのも忘れない。軽い口当たりで、スポンジとクリームの組み合わせが絶妙だ。
こうして会うのは三ヶ月ぶりだった。わたしは基本的に土日が休みだけど、そういう時、彼は仕事だったりする。休みの日でも呼び出しがあればそちらを優先するし、わたしはその次だ。
「ああ、うん。……ごめん、なかなか休みが取れなくて」
「あ、違うの。そういう意味じゃなくて。わたしは全然いいんだけど、せっかくの休みなのにって思って」
「本気で言ってる? それ」
「すみません冗談です」
視線から逃げるようにあわててブルーベリーのタルトを食べると、ほどよい酸味が口の中に広がった。
彼がとても忙しいひとなのはわかっているし、わたしも面倒くさい女ではないので、休みのたびに構ってほしい、などとわがままを言うことはない。というか、そもそも彼の休みがいつなのかわからないから言いようがない。会いたいとか仕事とわたしどっちが大事なのとか、わたしはそういうことを相手に求めたことがなく、結果、淡白すぎるという理由で過去の恋人と別れたこともあるのだけど、いまの彼はそういうのがないから楽だ。放っておかれすぎな気もするけれど、このくらいがちょうどいい。お互いに気を遣わなくてすむ。
一杯目の紅茶を飲み終えて同じものをおかわりしてから、今度はシュークリームに手をつけた。表面はざくざくしたクッキー生地で、カスタードクリームとの相性がたまらない。もうひとつ食べたいところだが、さっきテーブルに戻ってくる際に見かけたフルーツロールが気になったので、次はそれとチョコレートを狙いにゆく。
「それ、おいしい?」
シュークリームを食べていると、ガラスの器に盛られたアイスクリームが目についた。つるりとした、白と赤。そういえば、自分で好きなだけ盛ることのできるアイスクリームのコーナーがあるのだとさっき教えてくれたっけ。まだ一杯目の紅茶を飲んでいた彼はカップをソーサーに戻し、アイスクリーム用の小さなスプーンで白いほうをすくいあげた。目で追いかけていると、わたしの前に銀色のスプーンが差し出される。
「えっ! そういうつもりで言ったんじゃないよ! ていうか自分で持ってくるし……」
「でも、他にもたくさん食べるのあるだろ」
そうなのだ。アイスクリームも気になるけれど、お腹が落ち着いてしまいそうでなかなか手を出せない。つめたいからあまり量が食べられないし、それよりもまだ食べていないケーキのほうが気になる。いろいろなスイーツを食べたにもかかわらず、わたしの胃はまだまだ元気だった。
「ほら、溶けるぞ」
「う、うん」
傍から見たらバカップルに見えないだろうかとどきどきしながら、わたしは彼が差し出してくれたアイスクリームを舌の上にのせる。
「……おいしい!」
ちょっとびっくりするようなおいしさだ。彼の手元にある器を覗きこむと、バニラビーンズの黒い粒が見えた。アイスクリームといいスフレといい、バニラの味が濃いスイーツは大好きだ。このアイスクリームがアップルパイやクレープ・シュゼットに添えてあったらきっとかんぺきだろう。
「ほら」
「いいの?」
器ごと前に出され、彼の手からスプーンを受け取る。決して食い意地が張っているわけではない。彼が食べていいといったので、ありがたくもらうことにしたのだ。濃厚なバニラはひんやりとしていて、今日食べたどのスイーツとも違うかんじがする。いつの間に頼んだのか、最初に説明とオーダーをとってくれた女性のスタッフがやってきて、彼の目の前にホットコーヒーを置いていった。わたしも次はカフェラテを頼もう。
「食べないの?」
すでにわたしはケーキ二つとタルト一つ、チョコレート二粒を胃のなかにおさめ、シュークリームを食べてひとのアイスクリームまで奪ったというのに、目の前の彼はケーキとチョコレート、アイスを少し食べただけで、いまは来たばかりのコーヒーを飲んでいる。せっかくこんなところにいるのにもったいない、と思っていると、彼はにっこりとほほ笑んだ。
「食べてるのを見るほうがよっぽど楽しい」
「そうかなあ……」
きれいに切り揃えられた爪を見ながら、わたしはぼんやりと気のない返事をした。
これ以上は食べられない、しばらくは甘いものはいらないというほどたくさんのスイーツをたいらげてから、わたしが化粧品を見たいといったのでファッションビルをまわることにした。すれ違うひとびとの視線が横にいる彼に集中している気がして、恥ずかしい気持ちと申し訳ない気持ちがないまぜになる。こんないい男の隣にいてごめんなさい、と思いながらも、ついにやけそうになってしまう。
休みの日などによく訪れる場所なので、どこに何があるのかはよく知っていた。化粧品のフロアに向かうまでのあいだにアパレルショップや雑貨店をひやかし、これがいいとかあれが似合いそうとか、つい寄り道をしてしまった。ひととおりウインドウ・ショッピングを楽しんでいると、いつのまにか予定外の買い物をしていた。セールで安くなっていたし、前々からほしかったものなのでよしとする。
「で、何を見にきたんだって?」
「えっと、新しいリップがほしくて」
今使っているのがもうすぐなくなりそうだったので、前からほしいなと思っていたのだ。ひとりで買いにきてもよかったのだけれど、自分ではどの色がいいのかわからなかったし、店員にすすめられるよりは知っているひとの意見を取り入れたかったので、タイミング的にもばっちりだ。カウンターの前で色を吟味しながら、いくつか候補を絞る。
「いつもピンクばっかりだから、違う色にしてみたくて」
はじめから強い色を試す勇気はないので、ベージュがかった赤とコーラルピンクにも見えるオレンジを手に取ったわたしは、「どっちがいいと思う?」と精一杯かわいく見えるよう首をかしげて訊ねてみた。しかし彼はわたしの問いかけには答えずに、近くにいた女性店員をスマートに呼び止めた。
「すみません。これ、試させてもらってもいいですか?」
「もちろんです! こちらへどうぞ」
彼に背中を押され、案内されるままカウンターの椅子へ座ると、その向かいに店員さんが落ち着く。どちらの色から試すか聞かれたため、まったく似合う気のしない赤のほうでお願いした。どんな風になるのだろうという冒険心からだ。
「普段は赤ってつけられます?」
「あんまり……でも、かわいいですよね。自分じゃつけないから、いいなあって思って見てます」
「一年中使える色ですからね。赤にもいろいろ種類があるので、肌なじみのいいものから試していくと抵抗なくつけられると思いますよ」
店員さんと話している横で、じっと見られるのは落ち着かない。だけど、ついてきてもらった手前、どこか行っててとも言えずに、リップが塗られるのを待つ。
「いかがでしょう?」
手鏡を渡され、とりあえずいろんな角度から見てみる。思ったよりも悪くない。ベージュっぽいので落ち着いて見えるし、なんだか大人っぽい。
「どうかな?」
「普段と違うから新鮮だ」
「だよね!?」
思いきって正解だった。自分のテンションが上がるのがわかる。
店員さんに向き直り、もうひとつのオレンジのほうもつけさせてもらう。せっかくつけてもらったのにもったいない、と思いながらも、先につけた赤のほうを落としてもらい、五分もしないうちにメイクが完成する。さすがプロだ。手際がいいし、わたしなんかがやるよりもずっと上手だ。
「こっちもかわいい……!」
赤は落ち着いた印象だったけど、オレンジはかわいらしく見える。どちらも今まで避けてきたタイプの色で、だからこそ悩んでしまう。
「どっちも買えばいいだろ」
「甘やかさないで……!」
「別にそういうわけじゃないけど」
「大丈夫! ひとつでいい!」
どうせふたつあっても余らせてしまうので、どちらか片方だけにしようと決意する。さて、赤とオレンジのどちらにすべきか。鏡を見ながら悩んでいると、そのなかで彼と目が合った。
「どっちがいい?」
「ど」
「どっちでも、はなしね!」
「……、じゃあ……」
こっちの色ください、と彼が選んだほうのリップのお会計をお願いして、店員さんが売り場を離れているあいだ、わたしはさきほどのやりとりを思い返してみる。
「どうして赤がいいって思ったの?」
わたしはどちらの色も気に入っていて、選べなかったので彼の好みに合わせてみたのだけれど、理由があるのなら聞いておきたい。今後の参考のためにも。
「いつもかわいいから、ちょっと違うのが見たくなった」
「へっ」
ちょうどいいタイミングで戻ってきた店員さんに商品の入ったショッパーを渡され、笑顔で見送られながら店をあとにする。彼はこちらのことをよくわかっているので、リップスティックの入った小さな紙袋はわたしに持たせてくれる。ぶらぶらさせながら歩くのは楽しいし、買い物をした感があって気分がよい。先に買った靴と洋服は、お店を出た時から彼が持ってくれている。というか、あまりにも自然すぎて、途中まで気がつかなかった。
「他に買うものは?」
「ううん、もう満足した! ありがとう」
ひさしぶりの買い物でストレスを解消したわたしはすっかり上機嫌になっていた。思い返してみると、最近はとくに外出らしい外出もしていなかった。どうやって週末を過ごしていたのか思い出せないし、よくもまあ大人しくしていたな、とちょっと感動すらおぼえた。おかげで今日は散在してしまったが、楽しかったのでよしとする。
楽しい気分でホテルに戻り、数時間前に顔を出したフロントのすぐ横にあるエレベーターホールに向かって歩いてゆくうちに、わたしの心臓は今にも飛び出しそうなくらいどきどきしはじめた。さっきはスイーツのことばかり考えていたからそんなに気にならなかったけれど、あまりお目にかかることのない星のつくホテルは、建物のなかに入るだけでも緊張してしまう。それが、今からその一室に泊まれるなんて! 部屋の内装も楽しみだし、今夜はこのままずっと一緒に過ごせるのだと思うと胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
それはつまり、そういうことだ。スイーツビュッフェでお腹をみたしたあとはショッピングを楽しんで、夕方よりもすこし早い時間にホテルへと戻ってくる。バーで優雅にお酒を嗜んだり、リッチにルームサービスを頼むのもいいかもしれない。だけど、気持ちよく酔っ払ったところでおやすみなさい、とはならないだろう。そんなのは女友達とすることだ。ひさしぶりに恋人と過ごす夜に、何もせずただ同じベッドで眠るだけというのはさすがにわたしもがっかりする。期待とときめきで過ごした一週間を返してほしい。
ところで、このホテルのエレベーターは、部屋のカードキーによって客室階に行けるようになっている。それがセキュリティ上万全であることは理解しているけれど、操作にまごつくのがわたしだ。エレベーター内のセンサーにカードキーをかざすとボタンが押せるようになるのだが、いつも焦ってしまい、スムーズに目的階に行けたためしがない。今日は彼がカードキーを持っているので、わたしがすることは何もなかった。
「…………」
「何?」
「慣れてるなーと思って」
「? 慣れてるも何もないだろ」
それはそうなのだが。わたしが口を噤むと、彼も黙ってしまった。
音もなく停止したエレベーターの扉が開き、先に箱を出る。違和感をおぼえたのは、足元のカーペットが思いのほかふかふかしていたからだ。わたしは部屋の番号を知らないので、前を行く彼の少しうしろをついて歩く。チェックインで混み合う時間にはまだ早いので、振り返ってもフロアには誰もいない。足音もしないので、後ろから誰かが来てもきっと気づかないだろう。外部からの侵入者対策は完璧だけど、宿泊客に怪しいひとがいたらかなり危険だ。部屋に連れこまれたら助けを呼びようがない。
「……何か変なこと考えてるだろ」
「えっ」
用心するに越したことはないし、変なことではないはずだ。たぶん。
同じかたちのドアをいくつか通り過ぎたところで、彼の足が止まる。ここが今日わたしたちが泊まる部屋らしい。カードキーで扉を開け、先に部屋へ入るよう促された。
「あっ」
思わず声が出てしまったのは、完全に油断していて、ちょっとびっくりしたからだ。期待していたのは間違いないけれど、安心したのかもしれない。ふたつ並んだベッドを見て、ほっとするなんて。そりゃそうだ。これでひとつしかなかったらあからさますぎて逃げ出していただろう。
「何かあった?」
「別に! 何も!」
何事かと声をかけてきた彼に、ぶんぶんと首を振る。部屋の真ん中に突っ立ったままのわたしを訝しげに見て、それから、「ツインにしたけどよかった?」と訊ねられる。
「全然! どうもありがとう!」
「まあ、どうせ使うのはひとつだから意味ないけど」
「ひえっ」
「ひとつだろ?」
「ひ、ひとつかなあ……」
彼の視線がめいっぱい顔を逸らしたわたしに注がれているのが痛いほどわかる。目を合わせられない。きっと首まで赤くなっていることだろう。やっぱり帰りたい。ひととおりからかって満足したのか、彼はわたしの横を通り過ぎて、ルームサービスのメニューを見ているようだった。わたしもほっとして、わずかながら緊張を解く。
「お腹空いてる?」
「うーん……あんまり」
「じゃあ、お酒は?」
「飲みたいです」
「よし」
このホテルには上の階にバーがあって、宿泊客以外も利用できるようになっている。待ち合わせやデートで行くバーはちょっととくべつな感じがする。もちろんホテルのバーなんて入ったことがない。いろんなかたちのグラスや色とりどりのカクテルは見ているだけでも楽しいから、お店の雰囲気だけでいい気分になれる。
夜というにはまだ早い、ちょうど夕方とのあいだの、いわゆるブルーアワーと呼ばれる時間帯だ。わたしのためにあまり甘くないカクテルを選んでくれた彼にお礼を言って、かちんとささやかにグラスを鳴らす。
「……おいしい!」
「よかった」
メニューを開いたものの、名前だけでは味の想像がつかないとさじを投げたわたしからいまの体調や好みを聞き出して、彼はかんぺきなオーダーをしてくれた。カクテルグラスの向こうに高層階の景色を眺めることのできる、贅沢な時間。
「前に来たことある?」
「ここ? 初めてだけど。……なに、浮気してるとでも思った?」
「思ってないけど……仕事では来たことあるのかなって」
探偵の仕事をしていたことがあると聞いていたので、その時の伝手で知っているのだろうと思ったのだ。けれど彼はゆるゆると首を振って否定した。どうやら違うらしい。やけに手馴れていると思ったのは気のせいか。
「残念だけどはずれ。人前では飲まないようにしてるんだ」
「じゃあ、どうしていまは飲んでるの?」
あとから考えてみれば、なぜそんなことを聞いたのだろう。愚問だった。とろりと溶けた瞳がわたしをつかまえて、目が離せなくなる。グラスにはまだ半分ほどお酒が残っているけれど、どうやらもう酔いがまわったらしい。
「隙を見せたら、きみは油断してくれるだろ」
空と同じ色のひとみは、まっすぐにわたしを見つめていた。
結局、お酒は一杯しか飲まなかった。お腹がいっぱいなのもあったし、雰囲気にとても満足したのだ。バーをあとにしたわたしたちは大人だというのに手を繋いで、部屋までの道のりを並んで歩いていった。カードキーを持っているのはやっぱり彼のほうで、わたしはおとなしく彼が鍵を開けてくれるのを待った。
ふわふわといい気持ちでベッドにダイブすると、そのまま寝てしまいそうになる。まぶたは重く、心地よい眠気を運んでくる。ぎし、ともうひとりぶんの体重を受けて沈んだベッドにおどろいて目を開けると、こちらを見下ろしている彼と目が合った。
「な、なに」
「いや、ベッドに運ぶ手間が省けたなと思って」
「えっ? ちょ、ちょっと待って、するの?」
「そのつもりで来ただろ?」
「いやー! せめてシャワー浴びたい!」
「俺は来る前に浴びてきた」
「今! 今です!」
口でも力でも彼に敵うはずはなく、あっという間に言い負かされ組み敷かれてしまう。しかし、今日のために先日通販で新しい下着を買っておいてよかった。白地に色とりどりの刺繍があしらわれた、とびきりかわいいデザインのものだ。
「……あんまり女性の買い物に口出ししたくないけど」
「なに?」
「下着を買う時はちゃんと測ってもらったほうがいいぞ。サイズ合ってない」
「うそ!?」
「大きくなったんじゃないか?」
にやにやと悪戯っぽい表情を向けられれば、彼の言わんとしていることはなんとなくわかる。この状況ならなおさらだ。
「やだー! そういうとこホントに嫌い!」
ベッドの上でぎゃあぎゃあと色気のない声を出していると、急にぐっと顔が近づいてきてそのまま唇を舐められた。びっくりして固まっているわたしを面白そうに眺め、一言。
「バニラの味がする」
「……うそ、」
赤い舌に誘われるように、ほんの少しだけからだを起こして、彼の唇も同じように舐める。色っぽさのかけらもない、なんだか動物どうしのじゃれあいみたいだ、と思った。
「どう?」
「……する」
たしかに彼の言うとおり、舌の上で甘い香りとともにバニラの風味を感じた。きっとお昼に食べたアイスクリームだろう。きちんと拭いたつもりだったけれど、まだどこかに残っていたようだ。
至近距離で視線がかち合い、今度はどちらからともなく目を伏せてキスをした。ついばむようにふれ、すぐにそれは離れてゆく。彼の唇に、わたしのつけている口紅が移っているのが見える。なんだかいいムードで、ひどくふしぎな感じがして、夢でも見ているみたいだった。
「で。いつになったら続きをさせてくれるんだ?」
「も、もうちょっと暗くなったら……」
意味を成さない精一杯の抵抗に、それでも彼は待ってくれる。きっと大人の余裕というやつだ。わたしも大人なのだけれど、どうしたって彼には敵わないと思うことが多々ある。たとえば今とか。
日没までは、あと少し。
*
夢から覚める瞬間はいつも、名残惜しいような、心地よいような感覚がある。もうすこし泳いでいたいような、早く浮き上がりたいような。うす暗い海の底からきらきらと光る水面へ、ゆっくりと向かってゆく。ゆるゆると目をほどくと、カーテンの隙間からこぼれた朝日がぼんやりと部屋を照らし出しているのがみえた。ゆっくりとまばたきをして、それからもういちど目を閉じる。もうしばらく、夢の世界でまどろんでいたい。枕に顔を押しつけ、ブランケットを手繰り寄せる。わたしの部屋の毛布はこんなにやわらかかっただろうかと違和感をおぼえたところで、昨晩の記憶がよみがえった。恋人とひさびさに会って、デートをして、ホテルでしっぽりと過ごしたのだった。素敵な一夜だった。しばらくのあいだは、思い出すたびににやついてしまいそうなくらい。と、そこでようやく、隣でいっしょに眠っているはずの恋人のすがたが見えないことに気がついた。どうせ急な呼び出しが入ったのだろう。ひとりで朝を迎えるのはこれが初めてではない。
そもそも、休みが合ったことすら奇跡といえよう。仕方がない、とテーブルの上にあるであろう書き置きを確認しようと、のろのろとからだを起こす。メモには走り書きで、仕事が入った旨と、短い謝罪が添えられている。うーん。わかってはいるけど残念だ。ちょっとむなしい。誰もいない部屋で大きくため息を吐き出して、シャワーを浴びるためにバスルームへと向かう。
……なんていうことはなく、ぱちりと目を覚ますと、眼前に男がいた。思わず「ひっ」と情けない声が出る。ものすごく見られていた。さぞ間抜けな寝顔だったに違いない。目が合い、にっこりと笑いかけられる。いい笑顔だ。朝から眩しい。距離を取ろうにも、光の速さで抱きこまれてかえって近くなってしまった。
「おはよう」
「……いつから起きてたの?」
「一時間くらい前」
「起こしてよ!」
どうやら一時間ほど、のんきに寝ている姿を見られていたらしい。平和で何よりだ。恥ずかしいことこの上ない。寝顔なんてたいして面白くもなんともないはずだけど、たしかにわたしも、彼が寝ているのを見るのは好きだ。あんまり機会はないけれど、永遠に見ていられると思う。それと同じ感覚なのだろうか。
「あ、ねえ、仕事は?」
「ん? 休みだけど」
「休みなの?」
「休みって言わなかったか?」
「わかんない……」
「休みだよ」
そうなのか。返事を聞いて目を瞬かせていると、彼の視線がゆったりとやわらかいものへと変わる。砂糖を煮詰めたような甘さで見つめられ、寝起きからどきどきする。
「ち……近くない?」
「そう?」
「あ、ちょっと……」
衣服を身にまとっていない肌を撫でられ、ぞわぞわと背筋が粟立つ。昨晩のことを思い出させるようなふれかたに、思わずこちらもその気にさせられる。ぶわりと体温が上がって、石鹸の香りが強くなった気がした。
唇の端に、首すじに、肩にキスを落とされながら、彼のゆびがそっと下腹部の中心をノックする。濡れているのが自分でもわかって、思わずきゅっと目をつむる。顔が見えなくても、彼が楽しそうにこちらを見ているのを感じた。
堪えきれずにはあ、と息を吐き出したのを合図に、彼はさっきよりも強い力でわたしを抱き寄せた。
昨日ぶりのラウンジでブランチをとりながら、ミルクたっぷりのカフェオレを飲む。飲み慣れているせいもあるだろうけれど、彼がつくってくれるほうがおいしいと思ってしまうのは欲目だろうか。
きれいな白いプレートの上には、クロワッサンとデニッシュがならんでいる。サイドメニューにはじゃがいものポタージュにフルーツのたくさん入ったヨーグルト、厚切りオレンジのマーマレード。朝一で食べるには量が多いけれど、お昼が近いから余裕で胃に収まりそうだ。カロリーのことはいったん忘れることにする。
サーモンオムレツのクロワッサンサンドにかぶりつくと、バターの風味とスモークサーモンの塩気がちょうどいい。さすが星のつくホテルだ。
ここのブランチはボリュームがあり、見た目もうつくしいのでとても人気があるらしい。たしかに、ちょっと憧れる。ポタージュなんて家ではつくらないし、いろいろな種類のフルーツだってこんな場所じゃなきゃ食べられない。ホイップクリームのたっぷり詰まったデニッシュは、女の子の夢をすべて集めたみたいに素敵なものだ。それと同時に、胃がキリキリと痛み出す。食べすぎによるものではない。これからダメージを受ける財布のことを思っているのだ。絶対足りない。
「ねえ、あの、お金いくら……? 返すのあとでいい?」
彼はきょとんとして、大きな目をまるくしてわたしを見つめた。
「俺が誘ったんだから払わせるわけないだろ」
「でも」
「スイーツビュッフェ込みのプランだし気にしなくていいよ」
「じゃあこれは?」
「最近忙しかったし埋め合わせ」
気にしなくていいと澄ました表情で告げられれば、こちらはもう何も言えなくなる。彼がそう言うなら、と思うことにして、これ以上あれこれ言うのはやめた。フォークでオレンジのマーマレードを刺し、口に運ぶ。寝起きの頭にがつんとくる甘さだ。
「ホテル、どこで予約したの? 一休?」
「一休じゃないけど……まあ、ちょっとしたつてで」
「へー」
彼の顔を見ると、言う気はさらさらないようだった。先に食事を終え、オレンジジュースを飲んでいる。急いで食べようとするのを見越して「ゆっくりでいいよ」と言われたので、大人しく従った。お言葉に甘えて自分のペースで食べようとするが、見られているとうまく食べられないような気がする。仕方がないのはわかっているけれど、こういう場所ってどうして向かい合わせの席なんだろう。横並びだったらそんなことは気にしなくてすむのに。できるだけ行儀よく見えるように気をつけながらデニッシュを頬張る。幸福の味がした。
「あとでアイス買っていこうか」
「アイス?」
「昨日の。気に入ってただろ。今度アップルパイでも作るよ」
「本当?」
なんでも、あのアイスクリームはホテルのオリジナルだからお土産に買えるのだという。彼の作るアップルパイならきっとこの世のどんなものよりもおいしいに決まっている。パイの熱で溶け出したアイスを想像するだけでたまらない。
「アップルパイ、最近食べてないなあ。楽しみ」
「……今度はいつって、聞かないのか」
「えー? いいよ。忙しいだろうし、空いてる時で」
まあ、空いてる時なんて滅多にないのだろうけれど。向かいにいる彼は、複雑そうな表情をしている。
もしかして、実はすごく気にしていたのだろうか。会う時間がつくれないこと。すごく普通だ。なんだか恋人っぽい。わたしはあんまりそういうことを気にしない性格なので、逆に申し訳ない気持ちになる。
「あの、本当に、わたしはそういうの気にしないっていうか……淡白すぎる? だめ?」
「だめじゃない」
「そう? でも、休みの日にこうやって会えるだけでも嬉しいし、ありがたいし、楽しいよ」
「じゃあ、せいぜい愛想尽かされないようにするよ」
「ないと思うけど……」
だって、そうやって今度があることを教えてくれる。それってすてきなことじゃない? 約束というほど確かなものじゃないけれど、わたしにとってはそれがすべてで、じゅうぶんだった。
「……なあ、」
名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。普段よりもすこし低い声。その表情に、何度ときめいてきたかわからない。
「な、なに?」
「ここ、ついてる」
唇の端についていたのであろうデニッシュの生地を指ですくわれ、そのままぺろりと口に運ばれる。
「えっ、あっ! ご、ごめんなさい」
「いいよ」
恥ずかしい。いい歳して子どもみたいな食べ方をしていたのもそうだし、いま彼がやったことも。何食わぬ顔をしているのはイケメンだからだろうか。ちょっと感動するレベルだ。もしかしたらプロポーズかも、なんて淡い期待を抱いた自分が恥ずかしくて、それはないないと首を振る。
だってそれは今日じゃなくもっと先のことで、でも遠くない未来に起こる出来事で、だけどわたしはまだそれを知らないから。
2018.09.17 -> 2020.11.22
バニラ・XXX
通話を終えたばかりでまだ熱をもったままのスマートフォンをスラックスのポケットに押し込んで、最後に彼女と会った日のことを思い出す。あれはたしか、春先に無理やり都合をつけて、桜を見にドライブへ行ったのだった。都内はどこも葉桜になっていて、結局ほとんど咲いているところは見られなかったのだけれど、それでも彼女は助手席で楽しそうにしていた。なかなか会えなかったお詫びにと奢ったカフェラテ一杯であんなに喜んでくれるのだから、もっといろいろな顔が見たいと思ってしまう。
二ヶ月。彼女と会わなかった期間だ。付き合う前から勘付いていただろうが、忙しい職種であることは前もって伝えていた。付き合ってからは、あまり会えないと思う、電話には出られない、メールもレスポンスが遅いか、返事がないだろうということも。
彼女は健気にも男の言うことを聞き、さきほどの電話でも彼のために予定を空けた。用事がないのは把握済みだったが、断られることを想定しなかったわけではない。何せ秘密だらけの怪しい男だ。いつ愛想を尽かされても不思議ではなかった。
会わないうちに、季節は夏になった。きっと彼女の素敵な表情をたくさん見逃していることだろう。それを惜しく思う程度には、降谷はふつうの男だった。
とつぜん取りつけたデートの約束だって、あの子の笑った顔がみたいと思ってプランを考えてみたけれど、結局は自分の都合を優先させただけだ。それでも彼女は子どもみたいにはしゃいで、電話のむこうで何をしているかなんて――立ち上がって、落ち着かなげに部屋をうろうろしているに違いなかった――手に取るようにわかる。からかうつもりでいった言葉に、おそらく自分のほうが期待していた。
だから。
「大丈夫、優しくする」
「わかってる! でも待って!」
数ヶ月ぶりに事に及ぼうとして、柄にもなくがっついた自覚はある。じっくりと時間をかけて彼女の機嫌を取り、タイミングを見計らって部屋に連れ込んだ。思ったとおりわあわあと喚いていた彼女もしだいに大人しくなり、最後にはかわいらしくベッドの上でいやらしいすがたを見せてくれた。さんざんに抱かれた彼女がもうゆるして、と悲鳴をあげたところでその夜は解放したのだけれど、翌朝、起きてすぐに隣で眠っている彼女の顔を見ていると、よくない気持ちがふつふつとわきあがってくる。一時間ほど見つめているうちに、ようやく彼女は目を覚ました。
彼女は恋人に見つめられるのが苦手なようで、じっと目を覗き込むと、逸らすか俯くことがほとんどだ。嫌いなわけではないみたいで、たまに見つめかえしてくれるのだけれど、そうすると今度はこちらがどきどきしてしまう。誤魔化すように視線をゆるめると、やっぱり彼女は恥ずかしそうに頬をばら色に染めて、いろんな理由をつけて逃げようとした。
からだのあちこちにキスを落とし、裸の腰を撫でてからその下の閉じた陰唇に触れ、ほんのりと湿っているそこへ指を押しつける。朝からこういうことをするのに抵抗があるのだろう。くん、と彼女は鼻を鳴らし、きゅっと目をつむって必死に声を我慢しようとした。
「っふ、ぅ……」
「……いい子、」
彼女は声を出すまいと必死にくちびるを噛んでいる。そこを無理やりこじ開け、男が指を咥内に入れた。おどろいて跳ねた舌が、やがて甘えるように絡みついてくる。ちゅう、とねだるみたいにしゃぶられて、昨晩、狭い膣にペニスを押し込んだ記憶がフラッシュバックする。……ねっとりと味わうように、彼女のそこは男を迎え入れてくれた。
「あ、うそ、やだ……」
脚を割り開き、まだ雌の匂いのするそこへ指をくっつける。ぴとりと吸いつく感覚があって、そのまま押し進めるとゆっくりと飲みこんだ。
「すご……まだ柔らかい」
「あぅ、や、恥ずかしい」
こんな朝から、と顔を赤らめる彼女は、それでも本気で嫌がるようなそぶりは見せなかった。自分と同じできもちいいことは好きなはずだから、本当は期待しているのもわかっている。
「なあ、ここ、見たい。見せて」
「え……? あ、や、やだ! いやぁ……!」
男はからだを下にやり、指が入っているところ、彼女のいちばん大切な部分を間近に見た。行為はたいてい夜で、テーブルランプの明かりがあっても部屋は暗かったから、そこをまじまじと見る機会なんてそうなかった。両手でくぱ、と左右にひらくと、きれいなピンク色がみえる。そこはたっぷりと愛液を湛え、だらだらと尻を伝ってシーツに染みをつくった。
「っやぁ、ひどい、やだぁ……」
好きな男に膣を開かれて、観察されるなんて。自分が同じ立場だったら遠慮したいところだけれど、それで彼女が興奮してくれるのなら、見られるのも悪くない。すこしいじめすぎたな、という反省のかわりに、彼女の股座に顔を近づける。
「っん……昨日、がんばってくれたから」
「え、あ、あ……」
これが嫌いな女はいないだろう。うそ、と両手で顔を覆い、指のあいだから男を見下ろしているその表情は、困惑の中に期待が見え隠れしていた。
「い、や、やだっ、やめてっ……」
「ん、……」
「あっ、あ、ん、んっ」
舌先でクリトリスを突くと、彼女は大きくかぶりを振って快感から逃れようとした。……駄目だ。やめない。逃がさない。がっしりと腰を掴み、陰唇の奥にある襞を舐める。女の匂いを色濃く感じ、シーツに擦れたペニスがいっそう硬くなった。潤んだ膣穴を舌でかき回すたび、びく、びくん、と彼女の腰が跳ね、やわらかな太ももが男の顔をぎゅっと挟む。拒んでいるのか、もっととねだっているのかわからない。白いシーツを必死に掴んで、いや、と泣く声が聞こえてくる。唾液とともにじゅるじゅると音を立てて愛液を啜り上げると、細かくからだを震わせて小さく達した。
「ふぁ、あ、はぁ……」
唾液と彼女の愛液とで、男の口の周りはべったりと濡れていた。手の甲で乱暴に拭い、ぐったりと弛緩したからだをひっくりかえして高く腰を上げさせる。自分が何をされているのかわかっていない彼女は、太ももを伝う愛液にも気づかないまま、男の眼前にまろい尻を差し出した。
「は、あぁ、あっ、あ……!」
淡い色の濡れた割れ目にまるい切っ先を突きつけ、彼女の中へ入ってゆく。後ろからゆっくりと腰を進めると、ぬるりと難なく怒張を受け入れた。つい数時間前までそこに入っていたから、中は当然ぴったりと男のかたちにおさまった。久しぶりに触れあう情熱的な夜も好きだけれど、そのあともう一度するセックスのほうが実は好きだったりする。ほとんど無抵抗で、男の言いなりになるからだが艶かしい。それに、彼女があまり好まないバックでできるのもいい。
無防備な背中に抱きついて、耳元で隠しもせずに喘ぐと、彼女の中がきゅっと締まった。彼女は降谷が声を出すと感じるらしく、無自覚に乱れた。堪えた吐息を吹きかけると彼女の感度はぐんと上がって、もっとぐずぐずになってしまう。腰を振るのにあわせてたぷたぷと揺れる乳房を掴み、ぴんと立った乳首を摘まんだ。
「あっあぅ、やっ、あ、っ」
「っは、エッロ……」
熟れた中が気持ちよくて、思わずあー、と声が出た。出し入れするたび、めくれ上がった陰唇のあいだから凶暴な性器が見え隠れした。彼女のここはこんなにも健気に男を受け入れて、ペニスを味わうように中をひくつかせた。
体重をかけ、昨晩よりもずっと奥までペニスを挿してゆくと、下生え同士が絡み合い、お互いの体液でぐっしょりと濡れた。ぐねぐねと柔らかくうねっている膣肉のさらに深くにこつんと当たるものがあることに気づいて、下で大きく息を乱す彼女に問いかける。
「ン、……もしかして、奥、当たってる?」
「あ、あ! やぁっ、なにっ」
「ほら、ここ……」
「ぅ、っあ、ひん、ひぅ」
男の精液をねだって、子宮が降りてきているのだ。薄い腹をてのひらで押すと、女が切なげに身を捩った。かわいらしい悲鳴は聞かなかったことにして、より深くにペニスを埋め込んでゆく。長さも太さもそれなりにあるほうだと自負しているから、中をいっぱいにみたされて苦しいに違いない。逃げたがりの彼女を上から押さえつけ、隙間なくからだを密着させる。ねっとりと絡みつく粘膜のもっと先、きっと彼女も知らないところを犯して、胎を結ばせたい、なんて。……そんなのはきっと、許されないだろうけれど。
「あっあ、あぅ、だめ、も、はいらな……」
「こら、逃げるな」
「あ、あ、やだ、や、こんなの知らな……!」
初めての感覚に、いやだ、こわい、と震える彼女をどうにか宥めすかして、子宮口の奥にぐっぽりと亀頭をはめる。……朝から酷だとは思うけれど、女性はよほど感じていないとこうはならないはずだから、きっと彼女も自分と同じように興奮しているに違いなかった。
「ほら。……全部入った」
「あ、あ……」
真っ赤に染まった小さな耳に、男の濡れたくちびるがふれている。脚を大きく開かせて、一番深いところを抉るように小突くと、逃げられないとわかっていてもなお彼女はシーツの上でもがいた。好きな男のかたちをおぼえた膣が子種を欲している。……たっぷりと奥に射精して、孕ませられたら。想像して、興奮で溢れた先走りが、とぷ、と少量注ぎ込まれた。
まだ奥でイくことをおぼえていない彼女には、いまの刺激はきっと辛いだけだろう。ゆるりと腰を動かしながら、伸ばした手で陰核を擦る。直接見なくても、ぷっくりと膨らんでいるのがわかった。浅いところまでペニスを引き抜くと、いつもの感覚が戻ってきたのか、彼女は声帯を震わせ、男を締めつけながら大きく絶頂した。つられて吐精しそうになるのをぐっと堪え、勢いよく抜いた雄の先端から精液を迸らせた。肩を大きく上下させている女の尻に、男の精液がかかる。肌を伝ってぱたりとシーツに落ちた体液を、彼女の胎に注いでやりたかった。
いつか、本当に孕ませる時がくるまで、今はまだ。
2018.09.17 -> 2020.11.22
野菜赤味噌らーめん750円
ぐきゅるる、と激しく空腹を主張する音が、古い雑居ビルの一室に響いた。夕食というには遅く、朝食というには早すぎる午前零時。この時間に食べるなら夜食だろうか。
男所帯でいまさら恥ずかしいとは思わないけれど、それがことのほか大きい音だったので、どうにも居た堪れない気持ちになる。誰も何も言ってこない沈黙がかえってつらく(みんな仕事をしているから当たり前だ)、気にしないように意識するといっそう空腹を感じてしまい、集中力がぷつんと途切れたのがわかった。すこし休憩を挟もうとオフィスチェアに体重を預けて息を吐き出したところで、降谷さんが膨大な量の書類の束から顔を上げるのが見えた。
「飯行くか」
「ええっ」
「なんだ」
「いえ! 行きます!」
勢いよく立ち上がり、その場に数人を残して降谷さんのあとをついてゆく。部屋を出る前にちらりと見た時計の針は、零時十分を指していた。
階段を降りてビルの外に出るとぬるい風が吹いた。繁華街の一角、さびれたビルの二階が私たちの作業場所だ。表向きには、ダイレクトメールや新聞の折込広告に特化した印刷会社、ということになっている。時間に関係なくブラインドを閉めきっているので、部屋はいつも埃っぽく、じめじめとしていた。
そこから五分ほど歩いた場所に、夜の一時まで営業しているラーメン屋がある。こんな時間でもやっているので、昼も夜もないわれわれの仕事のあいまに、降谷さんはよくここへ連れてきてくれる。
店内は客が十人と少し入れるかどうかの広さで、カウンター席が六つとテーブル席が四つだ。先に食券を買う形式で、降谷さんはすでに何を注文するのか決めているようだった。
「どれにするんだ?」
「え! 自分で払います」
「こういうのは奢られておけ」
「えっと、じゃあ、赤味噌……を、大盛りで」
「……結構食べるんだな。いいけど」
「あ、あとめんま増量で、味玉トッピングしたいです」
「餃子は?」
「食べます!」
降谷さんも私も野菜赤味噌ラーメンにした。勤務中なのでビールが飲めないのが残念だ。そうでなくとも、この仕事をしているからには酔っ払うなんてことはあってはいけないので、外で飲むアルコールの量やシチュエーションはかなり制限される。
金曜だからか、この時間にしてはお客さんが多い。飲み会を終え、〆のラーメン、というひとたちが来ているようだった。お店のひとに食券を渡して、私たちは一番奥のテーブル席に座った。こんな夜中によく食べるな、という顔で見つめられたが、気にしないように努めた。それを言うなら降谷さんだってそうだ。アラサーを過ぎているのに食欲は男子高校生並だ(本人曰く、動くぶんお腹も空くらしい)。
「花ざかりの女子が夜中にラーメンねえ」
女子、といっていいのかはわからないけれど、目の前の上司は、頬杖をついてにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。不規則な生活のせいで体重が増加ぎみなのがばれたのだろうか。……このひとならそれもありえなくはないところが恐ろしい。見ただけでスリーサイズを当ててきそうだし、ちょっとした変化にも気づきそうだ。
「何か失礼なこと考えてるだろ」
「失礼だなんてそんな」
「考えてるのは否定しないんだな」
「……あっ!」
「わかりやすすぎ」
はめられた、と見上げると、降谷さんはおかしそうにけらけらと笑っていた。よく「何を考えているのかわからない」と言われるけれど、それは多分、この仕事をしているからだ。降谷さんの前ではこんな具合だし、私はこのひとの考えていることのほうがわからない。
そうしているうちに、焼き上がった餃子が先に運ばれてくる。お皿には六個載っていたので、私と降谷さんで三つずつ分けることにした。ラー油を一、二滴垂らした醤油につけて食べると、こんがりと焼けた皮が口の中でぱりぱりと音をたてた。
「降谷さん、もてないでしょ。結婚できませんよ」
「どうだかな。お前こそ、結婚できると思うなよ」
彼の言葉はセクハラパワハラなどではなく、仕事柄、という意味だ。どうしても秘密がつきまとう。たとえ夫婦であっても、言えることはほとんどない。しいて言えば警察官であることくらいだろうか。それだって、伏せているひとも多いというのに。
「そりゃ簡単にできるとは思ってないですけど……結婚しなくてもいいんで、たまに家に帰った時に誰かにいてほしいっていうか」
そうは言いつつ、それが難しいのもよくわかっている。こんな仕事だし、休みの日でも呼ばれれば行かなければならない。ひとには言えない仕事、デートのドタキャン……と続けば、怪しい女扱い、浮気を疑われ、仲は悪くなり、自然消滅、振られる、エトセトラエトセトラ。とにかく長続きしたためしがなかった。
「このあいだの合コンはどうだったんだ?」
「げっ、なんで知ってるんですか。もしかして私のファーストキスがいつかもわかります?」
非番となった先週の金曜日、私はひさしぶりに合コンへ行った。最近では声もかからなかったので、誘われただけでも奇跡といえよう。緊急の呼び出しが入りませんようにと祈りながら、自己紹介では公務員とだけ言っておいた。OLや秘書の子のほうが人気で、私は丸の内のおすすめランチの話を聞きながら、霞が関にある職員食堂のカレーライスのことを思い出していた。
「じゃあ収穫はなかったってことか」
「そ、れ、が! 一人だけいい感じのひとがいたんですよ!」
「何してるひと?」
「保険会社の営業です」
「怪しくないか」
「やめてください! すぐ疑うじゃないですか! だいたいまだ付き合ってませんし、話した感じはふつうでしたよ」
「そういう奴のほうが案外危ないんだよな」
身辺調査の前からそんなことを言われると、だんだん気が滅入ってくる。上司がこうなので、付き合う前からMPをごりごり削られる。それから、追い討ちをかけるように
「身内にしておけ。仕事の内容は話せないけど、理解はあるだろ」
と言ってのけた。
降谷さんの言うとおりだ。私たちがふつうのひととお付き合いをするためには、いくつかむずかしいことがある。自分の立場や、仕事の内容を話せないこと。休みの日に呼び出されるかもしれないこと。身辺調査のこと。命を落とす危険があること。時にはその危険が相手にも及ぶかもしれないこと。
私はその問題を乗り越えてみたかった。いいんだよ、わかってるって言って、だいじょうぶだよって抱きしめて、家に帰ったら出迎えてくれて。たまの休みに私が家にいる時は、おかえりを言ってあげるのもいい。きっとおどろいた顔が見られるはずだ。
でも、はたして本当にそれを望んでいるのだろうか。いつか煩わしく思う時がくるんじゃないだろうか。いまさらふつうの生活に満足できるかわからなくて、私は合コンに行き、嘘をついて、上司とともに夜中にラーメンを食べに来ている。
私のことを一番よくわかっているのは降谷さんだ。どんなに仕事が大変でも、罵られても、死にかけても、このひとについていこうと決めた。この国に尽くして生きてゆくと。それで十分じゃないか。
ちょうどいいタイミングでどんぶりが運ばれてきたので、私たちは箸をとり、ラーメンを食べはじめた。この時間の高カロリーは罪悪感が凄まじいが、空腹が勝つので仕方がない。そのぶん働けばいいのだ。
どうして夜って脂っこいものが欲しくなるんだろう。焼き鳥に日本酒。唐揚げにレモンサワー。アヒージョに白ワイン。どれも最高の組み合わせで、金曜の夜に食べたいものばかりだ。
「降谷さぁん。ビール頼んじゃだめですか?」
「だめ」
俺も飲みたい、と言いながら、降谷さんはラーメンを啜った。私も目の前の味玉にかじりつく。半熟の黄身が濃厚なスープに溶け出して、絶品だった。
深夜のラーメンは、空腹の胃によく沁みた。
2018.09.17 -> 2020.11.22
半ライス110円
人工的で均一な光量で保たれた庁舎の廊下を、ふらふらとした足取りの女が歩いている。髪はぼさぼさで、目の下には濃い隈ができている。顔色もよくない。
見かねた同僚たちにフロアを追い出された彼女は、身一つで下の仮眠室に向かうところだった。湯船に浸かってゆっくり疲れを取りたかったけれど、あいにくこの建物にはシャワールームしか備え付けられていない。とりあえず身体を休めて、起きたら銭湯にでも行ってこようかと本気で考え始めていると、ぐい、とワイシャツの後ろ首を引っ掴まれた。
「わっ!」
こんな場所で襲いかかるなんて、まさか不審者ではあるまい。おおかた知っている人物だろうが、心当たりもなく、ばくばくとうるさい心臓を落ち着かせながらおそるおそる振り向くと、ふだんはこんな場所でお目にかかることのない人間が立っていた。
「ふ、降谷さん」
「ひどい顔だな」
「降谷さんこそ……」
彼女は隈ができやすい体質で、ちょっとの寝不足でもすぐ心配されてしまう。だからついさっきも、休んだほうがいい、寝てこいと散々言われて部屋を出てきたのだ。大丈夫と言い張って仕事を続けてもよかったのだが、眠いのと顔色が悪いのは事実だったので、お言葉に甘えて大人しく仮眠室へ行くことにした。まさか彼に会うとは思わなかったが。
降谷はといえば部内でも有名なショートスリーパーで、潜入捜査でハードな生活を送るうちにそうなったのだとか、歴史上の偉人のようにすごいお人だからだとか、いろんな噂がつきまとっていた。本人に言わせると忙しさのあまり睡眠時間を削っているだけで、休めるものなら休みたい、とのことだ。
その多忙な上司は、体調が顔に出ることはほとんどないのだが、今は色濃い隈が見えているということは相当な激務だったに違いない。眠たげで、珍しいことに髭も生えている。お疲れさまです、と言うと、「やっと終わったんだよ。長かった……」という言葉がかえってきたので、本当にお疲れだったのだなとしみじみした。
「帰るんですか?」
「寝に行くんだろ? 俺も行く」
それで声をかけてきたのか。納得して、いっしょに地下の仮眠室へと向かう。
真っ昼間から仮眠室を使うのは彼らくらいで、自分たちのほかに人の気配はなかった。フロアの隅にあるソファで寝てもよかったのだけれど、ひと気がないのと薄暗いのを見越して仮眠室で寝るほうを選んだ。そういう目で見ていないし、見られてもいないだろうが、差し迫ってもいない状況下で、異性に寝顔を晒すのには抵抗があった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おい。ここまできてそれはないだろ」
スーツの上着をロッカーに預けて一番奥のベッドへ行こうとすると、つれないな、と男が口を尖らせる。……初めからそのつもりで、彼女に声をかけたのだ。そのまま彼女が寝ようとしていたベッドへ、ふたりでもつれるようにして倒れた――というと情熱的だが、実際は降谷のほうが彼女を無理やり連れこんだ。
疲れていると人肌が恋しくなるのはわかるけれど、それが庁舎の仮眠室というのはいかがなものか。だけど、拒否しなかった自分も自分だ。彼と関係を持つのは、別にこれが初めてではない。ただ、正直なところ、それほど気分が乗っているわけでもなかったので、どこを触られても彼女の感度はいまいちだ。男にも、それはすぐに伝わった。わかっていてなお、大して寝心地がいいわけでもない狭いベッドに呼んだのだ。
彼女は無抵抗のまま、自分を見下ろしている男からの愛撫を受けていた。ぷち、ぷち、とワイシャツのぼたんを外していくと、ベージュのキャミソールが視界に入る。仕事中とはいえ、己の色気のなさをいまさら恥じた。せめて下着だけでも 派手な色のものを着けていればよかった。降谷はさして気にしていないようで、顔色ひとつ変えずにブラをずらし、女の胸元へと顔を埋める。伸びかけの髪がくすぐったく、彼女はちいさく身を捩った。
「……仮眠室でこういうことするの、よくないと思うんですけど」
「ばれなきゃいいんだよ。ひとりでするよりいいだろ」
「そうですけど……」
「大丈夫だよ。誰も来ない」
トイレの個室で声を押し殺してするオナニーほど虚しいものはない。仮眠室でなんてもちろんできないから、必然的にトイレでするしかないのだけれど、何が楽しくてこんなこと、と我にかえった瞬間がいちばんきつい。ひとりよりもふたりのほうが気持ちよくなれるから、するならそっちのほうがいいに決まっている。今日みたいにうまくタイミングが合えばいいが、残念ながら彼は多忙な身だ。だからこそ、この関係を続けていられるのだけれど。
彼女の上に覆い被さった男は、ちゅ、とリップ音を立てながら耳のうしろに口づけを落とした。男は相手をその気にさせるのが上手で、彼女の弱いところはぜんぶ知っている。首すじ、肩、二の腕……と辿ってゆくと、焦れったくなった女は自分からキスをねだった。執拗に脇腹を撫でまわしていた男のネクタイを引っ張り、かさついたくちびるに食らいつく。
「んぅ、ん、ン」
「っん……」
「ふぁ……、ん、んむ」
お望みどおり彼女の口のなかを舐めまわし、じゅる、と唾液ごと舌を吸い上げる。ぴくりと女の肩が揺れて、わずかに腰が浮く。それを押さえつけるように体重をかけてベッドに縫いとめ、唾液を流し込まれるのが、彼女はいっとう好きだった。
男からは、ミントの味がした。きっといつも食べているタブレットだろう。ほのかに香って、彼女を同じフレーバーにする。口のなかいっぱいに注がれた彼の唾液が自分のと混ざりあい、こく、と何度かにわけて飲みこむと、ようやくくちびるを離してくれた。ぞくり、と背がふるえて、すっかり準備ができあがってしまう。いちどスイッチが入ってしまえば、彼女はどんどん淫らになる。だんだん男の思うがままに流されて、疲れたからだは素直に彼を求めた。……こんなところで。仕事中なのに。頭ではよくないとわかっていても、本能が抗えない。
「いつからしてない?」
「んん、……一月くらい前……?」
「誰ともしてないな? 胸、前よりおっきくなったんじゃないか」
「っあ、降谷さんが触るからぁ……」
ワイシャツがきつくなったと感じるくらいには、彼女の胸は以前よりも膨らんでいた。とはいえわずかな差だから、それに気づいてるのはこの男くらいだろう。降谷には自分のせいだという心当たりもあったから、なおさらわかりやすかった。
つんと膨らんだ乳首に吸いついた。女の肌がしっとりと汗ばんでいるのが感じ取れた。舌でこすったり歯をたてたりすると、ん、ん、と甘ったるい声が聞こえてくる。気をよくした男は、膝で彼女の中心をぐりぐりと押した。挿入時のように腰を上げ、ぎゅ、と両脚でからだを挟み込んだ。
ベッドに寝転んだままテーパードパンツを脱いで、もじもじと脚を動かして続きをねだった。つま先でスラックス越しにいかがわしい場所を突っつくと、足癖の悪さを窘められる。彼女が悪戯をする前から、そこは硬く反応を示していた。窮屈そうに下着を押し上げているそれが早くほしくて、膝を擦り合わせることしかできない。
ほしがりの彼女にすぐあげてもよかったのだけれど、ふと意地悪をしたい気持ちになって、うすいピンクのペディキュアが施されたその足をとった。とつぜん足首を掴まれおどろいている女のふくらはぎから太ももを撫でる。下着越しに割れ目をなぞると、男の指が愛液で湿った。
「ここ、いつもどうやってしてるの」
「っあ、中に、指入れて……」
「へえ? 中でイける?」
「ん……こっち、さわったほうがきもちいから、ここもさわりながら……」
「一緒に触ってるんだ。エッロ……」
「あ、あ……」
彼女はみずから下着をずらし、そのあいだから蜜壺に指を埋めた。浅いところでくちゅくちゅと音がして、自分のいいところに当たるよう手を動かすのをやめることができない。もう片方の手は行き場をなくし、降谷のワイシャツを掴んだ。
「指、もっと奥にいれてみて……」
「っはぁ……っん、んぅ……」
「かわいい、いつもそうやってるんだ」
男の声に興奮して、目をつむった彼女がふるりと震えた。降谷は何もしていない。ただ見ているだけだ。自分の指だけでは足りずに、きゅ、と彼のワイシャツを引っ張る。うっすらと目をひらき、涙を湛えながら降谷を見上げる。
「ん……や、届かな……奥、して……」
そういって、恥ずかしそうに伏せたまつ毛が震えている。いまにも泣いてしまいそうだ。指では届かない場所を、彼ならみたしてやることができる。彼女がいちばんほしがっているものを、中にあげられる。
降谷はぱんぱんに張りつめたペニスを取り出して、彼女の下着の上からゆっくりと擦りつけた。男の先走りと下着に染みた彼女の愛液とで、潤滑剤なんかなくてもぬるぬると滑った。もどかしさから、女が無意識に腰を押しつけて快感を拾おうとする。男のほうもそろそろ限界だった。意味を成さなくなった下着をずらし、濡れた下生えの向こうにあるヴァギナにペニスを宛がった。
「ごめん。挿れさせて」
「あっ、あ、や、はいっちゃ……」
彼女の「いや」は「もっとして」と同義だ。ぐ、ぐ、と腰を押しつけ、とろけた膣の中にペニスを沈める。ゆっくりと腰を引いて、同じスピードで中を擦った。ようやくほしかったものを与えられた彼女は、どろどろに興奮しきった顔を隠しもしなかった。だらしなく舌を出して喘ぎながら、あん、と甘い声をあげる。
「ふぁ……きもちぃ……」
素直に伝えてくる彼女がかわいらしくて、つい調子に乗った。がつんと勢いよく奥を穿つと薄い背がしなり、軽く達したのがわかった。びくびくとうねる彼女のなかは狭く、やわらかな襞がぎゅっとペニスを包んでいる。ひどく心地がよくて、久しぶりの感覚にうっとりした。
「っん……、ひとりで、しなかったのか」
「したけどっ……自分でするのと、違うから、あっ」
余裕がないのをおくびにも出さずに、男は遠慮なく彼女の奥を押し上げた。圧倒的な質量に息が止まりそうになる。うまく呼吸ができなかった。
「あっぁ、あぅ、あっ」
「っん……もうちょっと、声、抑えて。誰かきたら、困るだろ」
好き勝手に犯しておきながら、無茶なことを言っている自覚はあった。誰も来ないようにちょっとした細工はしておいたけれど、物音を聞きつけた誰かが覗きにくる可能性はゼロではなかった。
「はは……いま、想像しただろ。中、締まった」
「ッ、ふぁ、あっ」
男に抱かれながら、彼女はまったく混乱していた。次々と押し寄せる快感にからだが追いつかない。子宮が熱い。汗が止まらない。男の額からも汗が伝い、彼女の白い胸にぽたりと落ちた。
彼女のなかは、こんなにも気持ちがよかっただろうか。久しぶりだから? それとも、こんな場所でセックスしているから? しばらく腰を揺すっていると、全身がびく、と大きくふるえて、続けて絶頂したことを知る。 きゅ、きゅ、とペニスをしゃぶる彼女のなかはとろけてあたたかく、ずっと繋がっていたいとさえ思う。
「なあ、ひとりでするのとどっちがいい?」
「あっ、ふ、ふるやさ、降谷さんがいい、あ、だめ、私、また……」
ゆるゆると腰を動かしながら、そろそろ射精が近いことを感じ始めていた。限界を訴える彼女の奥深くに自身を埋め込み、膣壁を擦り上げて掻き回していると、密着するようにぎゅっと両足が腰に絡みついた。
「う、おい、出る、から……っ」
「あ、ふるやさ、中、出しても、大丈夫だから……」
「……は、」
何を言ってるんだ、と思わず腰を止めると、膣肉がきゅんと切なく雄を締めつけた。咄嗟にぐっと堪えるが、彼女のほうは男の怒張をダイレクトに感じ、思わず甲高い声をあげた。
「ピル飲んでるからっ……ベッド汚れちゃうし、いい、ですよ」
ね、だからお願い、出して……。甘い声で乞われて、我慢できないはずがなかった。ずっと興味があった。彼女の中に出したらどうなるのかと。泣かれるか、罵声を浴びせられるかのどちらかだと思っていたのに。まさか、ねだられるとは思わなかった。
「あ、ひ、っんう」
「はぁ、あ、っく……!」
ふたりの大人をのせたベッドは、さっきからぎしぎしと大きく悲鳴をあげている。吐精感がせり上がってきて、やがて彼女の奥にびゅる、びゅるると精液を出した。最近は自慰もしていなかったから、濃い体液がたっぷりと女のなかに注がれる。……こんな、年下の部下に迫られて射精させられるなんて。すべて出しきってからようやく引き抜くと、ちゅぽん、といやらしい音がして眩暈がした。すっかり眠気は吹き飛んで、いまはぎらぎらと冴え渡っている。ベッドのうえに弱々しく横たわる彼女は体力を根こそぎ奪われてしまったようで、とろんと眠たげなまなこをしていた。本当は今すぐにでも離れなければいけないのに、そうするのが惜しい。ふたりで寝るには窮屈なベッドに、彼女と同じように横たわった。
「……降谷さん、シャワー……」
「あとで行く」
「うん……」
やがて眠りについた彼女の目の下には、相変わらず隈が浮かんでいる。さっきよりも濃く見えるのは、暗がりのせいだろうか。
先ほどまで己を突き入れていた薄い腹をそっと撫でる。この皮膚の下、胎の奥を犯して精を注ぎ込んで、彼女を孕ませて。自分のものにできたらいいのに。そうしたら何か変わるだろうか。……きっと変わらない。自分たちの生は、交わらない。
ぎし、と軋むベッドから立ち上がり、カーテンをひいて。この世界から遠ざけるようにして、降谷は部屋を後にした。眠るには、もう少し時間がかかりそうだった。
2018.09.17 -> 2020.11.22
東京ムーン
それじゃあ、七時に会いましょう、と電話越しに告げた彼女の声を、私はよく憶えている。
この前の日曜日のことだ。有希子さんから連絡がきたのはひさしぶりで、スマートフォンのディスプレイに表示された懐かしい名前にたいそうおどろかされたものだ。就寝前の私は本を読んでいたところで、それが工藤優作氏の「闇の男爵」シリーズだったものだからタイミングのよさに思わず笑ってしまった。
今度日本に帰るの、と知らせてくれた彼女の声はあかるくはきはきとしていて、聞けば向こうは朝の六時だという。優作さんはまだ寝ているというので、きっと私に電話をかけるために早く起きたのだろう。彼女のそういう心遣いが素敵で、私はいつも惚れ惚れしてしまう。
聞きたいことや話したいことは山ほどあったけれど、それは会った時の楽しみに取っておくことにして、私たちは電話を切った。私の一日が終わり、彼女の一日がはじまる。寝る前に有希子さんの声を聞いたおかげなのか、その日はふだんよりもよく眠ることができた。
約束の午後七時、慣れないヒールで階段をおり、豪奢な店内に足を踏み入れた。彼女が予約してくれたのは、名の知れたフレンチレストランだ。扉を開けるのには少々勇気が要ったが、背筋を伸ばして落ち着いた光量のエントランスホールを抜ける。ウェイティングバーを横切りメインダイニングでスタッフに出迎えられると、「藤峰様がお待ちです」と席に案内された。
有希子さんに出会ったのは私が大学を出てまだ間もない、出版社に勤めはじめた頃だった。研修を終えて編集部に配属された私は新入社員らしく雑用から覚えてゆくはずだったのだけれど、とつぜん藤峰有希子の担当を任された。元大女優で、引退したもののいまだに根強いファンがいる。その藤峰有希子の担当!
「あら、あなたが新しい担当の方?」
名乗るのも恐れ多い新人の私は、しかし礼儀として名乗らなければならなかった。当時彼女は主婦業のかたわら執筆活動をおこなっていて、不定期で女性誌にエッセイを寄稿していた。打ち合わせのため米花町の自宅を訪れた際、なぜか夫妻の旅行に同行することになり、そのまま青森へ行ったのは記憶に新しい(あとから聞いた話によると、推理小説家の工藤優作氏の取材旅行も兼ねていたそうだが)。夫妻は道中でも旅先でも、初対面の私にとてもよくしてくれた。その後エッセイは連載となり、有希子さんとは仕事以外でも会うようになった。なんでも話せる、友達のような関係だ。出版社を辞めたあとも交流は続いていて、今でもこうして付き合いがあるのは、うれしいしありがたいことだ。
「ひさしぶりね」
サマーグリーンのワンピースに身を包んだ有希子さんは相変わらずきれいで、それでもどこか少女めいた雰囲気がある。くるんとウェーブのかかった栗色の髪の毛を背中で揺らしながら、席についた私にむかってゆったりとほほ笑んだ。通された席は個室ではなかったが、格式のあるレストランらしく、ほかの客が不躾に彼女を見ることはない。だから有希子さんは堂々としていられるのだ。
優作さんとともにロサンゼルスで暮らしている彼女は、これまでにもときおり日本に帰ってきていたらしいのだけれど、もちろんプライベートなので噂程度に耳にしていた。忙しいひとなのはわかっていたので、向こうからの連絡がなければ私も無理にコンタクトを取ろうとはしなかった。今日こうして会うのは数年ぶりで、昨日の話の続きをするみたいに気負わずにいられる関係が心地よい。それよりも、このグランメゾンの雰囲気のほうが私を緊張させていた。あちこちにさりげなく飾られている絵画の数々、重厚な調度品に、質の良いサービス。この非日常的な空間では、都会の喧騒などどこ吹く風だ。
「素敵でしょう?」
縮こまっている私をリラックスさせるように有希子さんが囁いた。「新ちゃんがまだ小さかったころに初めて来たの。その時から何も変わってないわ」
「え……あ、エッセイに書いてたグランメゾンって」
「ええ」
かれこれ十年ほど前に彼女が執筆したエッセイに、そういえばそんな話があったなと思い至る。世界的マジシャンとの出会いと、役作りのために彼から教わったこと。グランメゾンでの優雅な食事とともに展開される私の知らない世界の話は、何度読んでも引き込まれた。有希子さんのお気に入りの店なら、きっと間違いなく素晴らしい場所なのだろう。
有希子さんはお店のひとと話をして、慣れない私のかわりに何品か料理をえらんでくれた。前菜に頼んだフォアグラのテリーヌにナイフをいれ、いちじくのジャムといっしょにパンにつけて食べる。いままでテリーヌをおいしいと思ったことはあまりなかったけれど、これは心の底からおいしいと思った。白ワインがよくすすむ。
お酒は好きだ。日本酒もビールも、もちろんワインも。詳しいわけではないけれど、おいしい料理といっしょに飲むととくべつという感じがするのがいい。
有希子さんがグラスの液体を半分ほどに減らしたところで、私は一杯を飲みきってしまった。追加で同じものをもう一杯いただき、オリーブを口に放る。
「優作さんは一緒じゃないんですか?」
こんどの帰国のことだ。仲の良い夫婦だから一緒に日本に帰ってきているものだと思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。
「彼、いま忙しいのよ。ほら、ちょっと前に映画の脚本やったでしょう? それで取材がたくさん入っちゃって」
「こっちでも話題になってましたよ」
ワイドショーで見た優作さんは数年前にカメラの前に姿を現した時の映像だったけれど、きっとあの若々しさは変わっていないのだろうなと考える。寄せられたコメントでは、映画に込められた思いが綴られていた。
話題は優作さんから新一くんのことに変わる。すこし前までは事件解決のたびにメディアで取り上げられていた彼だったが、最近はめっきり姿を見せなくなった。有希子さんによると、まだ高校生ながら早くも探偵の仕事が舞い込んでいるらしく、学業よりもそちらのほうを優先させているらしい。
「私もあんまりいえたことじゃないけど、学生のうちはしっかり勉強してもらいたいのに」
ぷりぷりと怒っているように見えるけれど、彼女がそう言うのも一人息子を心配しているからこそだろう。
スープやサラダは頼まなかったので、最初に運ばれてきたテリーヌとパンがちょうどなくなったタイミングで、メインの魚料理と肉料理がそれぞれ運ばれてきた。オマール海老のグラタンと、子羊背肉のロティ。グラタンのほうは、殻ごと縦に半分に切った海老のなかにいちど取り出した身を詰め直し、頭の部分のほうは味噌と雲丹、野菜を混ぜてオーブンで焼いている。濃厚な風味がたまらなくて、もったいないと思いつつもすぐにたいらげてしまった。あいだに私と有希子さんは赤ワインを注文し、それからロティをいただく。焼き加減もちょうどいい具合にやわらかく、豊満な香りが口の中に広がる。
私たちはとりとめのない話に花を咲かせ、お腹がいっぱいになったところでどうしても甘いものが食べたくなり、ふたりとも最後にデザートを頼んだ。私はレモンのソルベとクリームチーズのアイス、有希子さんはガトーショコラを。お互いのデザートを交換して食べ終わるころには、ここに来てから二時間ほどが経過していた。
併設のバーで飲みなおそうという話になり、ふたりで移動してアルコールを追加したのだけれど、オーダーしたカクテルが運ばれてきたところで有希子さんのスマートフォンが鳴った。私にことわってから席を立ち、しばらく電話をしていたのだけれど、戻ってくるなり「ごめん!」と顔の前で手を合わせた。
「ちょっと急用が入っちゃって、今すぐ行かなきゃいけなくて……」
有希子さんは申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。カクテルはまだ一口も飲んでいなかった。
「大丈夫ですよ」
「本当にごめんね。よかったらそれ、飲んでもらえる?」
私はもうちょっとゆっくりしたい気分だったので、うなずいて、ばたばたと出て行く有希子さんを見送った。
ようやくこの雰囲気にも慣れてきて、つい数時間前まで緊張していたのが嘘みたいだ。きらめくシャンデリアはまるで夢のよう。有希子さんが残していったホワイト・レディを飲み、それから自分のグラスに口をつける。
ひとりになったことで気が緩んだのか、少し経つと、全身にアルコールがよく回っているのが自分でもわかった。ワインを飲みすぎたのだ。普段はあまりこういうことはないのだけれど、今日は悪酔いをしてしまったようで、自覚してからはすぐにバーをあとにした。
化粧室の鏡を見ると明らかに顔色が悪く、水で濡らしたハンカチを首すじに当てるといくらか気分がましになった。それでも具合が悪いことには変わりない。化粧室を出たところで立ちくらみがし、そのままずるずると壁を伝ってしゃがみこんだ。
幸いなことに吐くことはなかったけれど、どうにもできないのがかえってもどかしく、しばらくのあいだその場から動けなかった。久しぶりに袖を通したリトル・ブラック・ドレスの裾から、白い脚が伸びている。化粧室のあるフロアはひと気がなく、こんなみっともない姿は誰にも見られたくなかったので、ひとがいないのはありがたかった。このままじっとしていれば、そのうちによくなるはずだ。
そのまま俯いていると、視界に影が落ち、私はゆっくりと顔を上げた。男のひとが立っている。でも、逆光でよく見えない。いったい誰だろう。どうしてこんなところにいるんだろう。ぼんやりした頭で考えていると、彼はしゃがみこんで目線を合わせてきた。あかるい色の髪に、きれいなブルーグレーの瞳。日に焼けた肌は、私に夏を思い出させた。……外国のひと? 着ている制服はあのレストランのものだ。ということは、お店のスタッフだろうか。
「どうされました?」
びくりと肩を震わせると、安心させるようににっこりと微笑まれた。
「え?」
「気分が優れないようでしたので……」
「……日本語……」
すると彼はすこしおどろいて、私の不躾なことばにも嫌な顔ひとつせずに「日本人ですよ」とこたえた。それから、立ち上がり「立てますか」と私に手を差し出した。壁沿いに立つこともできたけれど、私は彼の手を取った。その瞬間ぐっと強い力で引かれ、視界が高くなる。急に立ったことで足元がふらついたが、しっかりと肩を抱き寄せられたので転ばずに済んだ。
「すみません」
「いえ。……大丈夫ですか?」
「はい……」
スタイルの良さそうなひとだと思っていたが、こうして密着すると、意外とがっしりした体つきをしているのがわかる。ぱっと見た感じは細く見えるのにふしぎだ。着痩せするタイプなのかもしれない。
向こうに座れる場所があるといって、彼は私の手を引いて絨毯の上を歩いてゆく。ソファに私を座らせるとそのままどこかへ行ってしまったが、しばらくすると、水の入ったグラスを持って戻ってきた。どうやらわざわざ取りにいってくれたらしい。
「どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
よほど私の様子が心配なのか、それとも落として割られたら困るのだろうか(当たり前だ)、手を包み込むようにしてグラスを渡された。なんとなく感じていたけれど、やたらと距離が近い気がする。でも、嫌な感じはしなかった。整った顔立ちに騙されているわけではない。何というか、こちらの警戒心を解くのが上手いのだ。
彼に見守られながらゆっくりとグラスを傾けて水を飲むと、ほのかにレモンの味がした。つめたくておいしい。……さっきまで飲んでいたお酒よりも。
「落ち着きましたか」
「はい……ちょっと酔ったみたいです」
あまり来ない格式の店だったので、自分が思っていた以上に緊張していたようだ。誰にも会いたくないと思っていたけれど、ひとと話したことで安心したらしく、気分が落ち着いてゆくのを感じた。
男は取り出したハンカチで私の額や首すじに浮かんだ汗を拭った。さすがにぎょっとして自分でやると言ったのだけれど、聞き入れてはもらえなかった。ハンカチからは香水のいいにおいがして、さっきとは別の意味でくらくらする。
「あの……いいです、そんな」
「ちょっと待ってくださいね」
彼は私の手からグラスをとりあげ、少しだけ傾けてハンカチを濡らすともう一度私の肌へと触れた。私のはもうぬるくなっていたから、ひんやりとして気持ちがいい。目のやり場に困ったのと心地のよさに、思わず目を瞑った。
「さっきより顔色がよくなりましたよ」
「ありがとうございます……」
ゆっくりとまぶたを開けると、透きとおったあおい目がこちらを見ていた。気まずくなって視線を落とすと、ファンデーションがハンカチについているのが見えてさっと血の気が引いた。
「あ、洗って返します!」
「いいですよ、このくらい。僕が洗ってもあなたが洗っても同じだ」
「そうですけど……」
彼はくすくすと笑ったが、こちらが不快になるようなものではなく、どこか親しみやすさを感じさせた。
「僕が勝手にしたことなので。気にしないでください」
それでも、申し訳なさが募る。吐き気はいつのまにかなくなって、いまではすっかり回復していた。
階段を上がる私の背中に手をそえ、彼は表まで付き添ってくれた。いつのまにか呼んでいたらしいタクシーに押し込まれ、遠ざかってゆく男に見送られながら店を後にした。名前を聞きそびれたことに気がついたのは車が走り出してしばらく経ってからだったが、それもすぐに意識の隅に追いやられてしまった。
翌朝、有希子さんから電話がかかってきた。先に帰ってしまったことへの謝罪と、私がひとりで帰れたかどうかを心配してくれたらしい。これでもいちおう大人なのだが、有希子さんにとっては未だに世話を焼きたくなる存在のようだ。
『結構飲んでたから心配だったのよ。無事に帰れたならよかったわ』
「あはは。ありがとうございます……」
余計な心配をかけたくなかったので、具合が悪くなったことは言わないでおいた。有希子さんのほうも無事に用事は済んだと言っていたので、改めて昨日のお礼を伝えて通話を終了する。まだなんとなく身体はだるいけれど、動けないほどではない。今日がお休みでよかったと思いながら、スマートフォンを放り投げて横たわる。もう一度眠ろうとしたが上手く寝られず、ベッドの上でだらだらと過ごしたあと、観念して起きることにした。
午後になってから化粧をして、外で仕事をするために出掛ける準備をした。かばんにタブレットを突っ込み、ラフな格好で外に出る。この日は打ち合わせもないので、適当な喫茶店に入って仕事をするつもりだった。本当は昨日のお店へ行き、介抱まがいのことをさせたあの男のひとにお礼を言いたかったのだけれど、とてもじゃないが、ランチでもひとりで入れるような場所じゃない。はたしてそんな日が訪れるのかはわからないが、タイミングが合った時にでも覗いてみようと思いながら、足は自然と米花町に向かっていた。
だから、その顔を見た時、私は本当に、心の底からびっくりしてしまったのだ。
探偵事務所の下にある喫茶店はお気に入りの場所で、私はよくそこでコーヒーと軽食を頼み、時間のゆるすかぎり仕事をしていた。いつものようにドアをくぐった先に、まさか彼がいるとは思わなかった。固まっている私を見て彼も気づいたようで、おどろいた顔をして、それからにっこりとほほ笑んだ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「あれ? 安室さん、知り合いの方ですか?」
「知り合いというか……」
彼の後ろからあらわれた女の子は私もよく知っている店員の梓さんで、彼も同じエプロンをしているから、きっとここで働いているのだろう。新しくアルバイトで雇ったのかもしれない。昨日と雰囲気はまるで違ったが、喫茶店の店員姿もよく似合っていた。
水の入ったグラスが運ばれてきたタイミングでコーヒーとホットサンドを頼むと、彼――安室さんというらしい――は、私にしか聞こえないボリュームの声で、「昨日は大丈夫でしたか」と訊ねてきた。
「はい。……あの、すみません。ありがとうございました」
「結構飲んでたみたいだったので、あのあとも心配してたんですよ」
有希子さんならまだしも、このひとにも同じことを言われるなんて。恥ずかしさで俯くと、くすくすと笑う声が上から聞こえてきた。こんなに早く再会するとは思っていなかったので、心の準備ができていなかった。会うのがわかっていたら、もっとましな服を着てきたのに! とはいえ、すでにみっともない部分を見られているので、いまさらという感じもする。開き直って、気にしないように努めることにした。
運ばれてきたホットサンドは、とろけたチーズとハムの相性が抜群だ。二日酔いのからだに塩分がしみわたる。コーヒーもおいしくて、お手軽な私はそれだけで幸せな気持ちになった。
お昼をまわった店内には私のほかにランチ目当ての客はおらず、お茶の時間にもまだ早いので、ちょうど空いているタイミングで来たみたいだ。すこし遅めの昼食を終えた私はタブレットを取り出して仕事をはじめる。
現在私はフリーのライターをしていて、ウェブをメインに記事を書いている。ジャンルは様々だが、主に飲食関係の記事を書くことが多い。今日は有希子さんがこちらへ帰ってくる前に取材したリストランテの紹介記事を書くため、私はテキストエディタを開いて文字を打ち始めた。サイトに掲載するためにカメラで撮った写真とは別に、自分のスマートフォンでも料理の写真を撮っていたので、それを見ながら文章を書いていく。一時間もあれば記事の大部分は書き終わった。これで仕事が終わったわけではないが、いくらか肩の荷も軽くなった。
「お仕事ですか?」
コーヒーのおかわりを持ってきてくれた安室さんは、二杯目を注ぎながら私に声をかけてきた。
「はい。時間がある時はよくこちらにお邪魔してるんです」
「お仕事は何を? ……待って。当てます。雑誌の編集……いや、ライターかな」
「えっ! どうしてわかったんですか」
すごい、と感動していると、洗い物をしていた梓さんが「安室さん、探偵なんですよ」と教えてくれた。
「探偵?」
「はい。お二階さんのところに弟子入りしてるんです」
「へえ~。当てちゃうなんてさすがです」
「というのは嘘で、さっきコーヒーをいれる時にチラッと見えたんです」
「えっ!?」
「そこのお店のイタリアン、美味しいですよね」
アイドル顔負けのウインクを投げられ、茫然としている私の目の前にケーキが置かれる。梓さんが持ってきてくれたものだ。
「あれ? 頼んでないですけど……」
「今度お店で出そうと思ってる試作品なんです。よかったらどうぞ。作ったのは私じゃなくて安室さんですけど」
可愛らしく笑ってみせた梓さんにつられて私も笑う。探偵としての洞察力に、ケーキ作りの才能。何でもできるんだな、と感心しながら食べたケーキは案の定というか、やっぱり美味しかった。
夜、一枚のカードを光にかざしながら、私はベッドに横たわっていた。透かしや仕掛けがあるわけでもない、何の変哲もないただのカードだ。クラフト紙には、お店のロゴと住所、それから「安室透」という名前が印刷されている。そこに手書きで足された電話番号は、彼の個人的な連絡先だ。
お会計の際、レジを打ってくれた安室さんに昨晩のお礼がしたいと伝えると、彼はあっさりと番号を教えてくれた。「試作品の感想だけでも充分ですけれど」といいながら、さらさらと流れるような所作で数字を書きつけてゆく。もちろんケーキはとても美味しかったけれど、それでは私だけがいい思いをしている。
とはいえ、昨日の今日でまだ二回会っただけの関係だ。食事に誘うのも突然すぎるし、介抱しただけで自分に気があると勘違いする女だと思われたくない。断じてそういうつもりはなく、大人としてのマナーだ。確かに安室さんはかっこいいけれど、彼とどうにかなりたいわけではない。
あれこれ考えてから、私はデパートでハンカチを一枚買うことにした。汚してしまったので新しいものが必要だろうと思ったし、値段的にも恐縮せずに受け取ってもらえるはずだ。男のひとも使えるような派手すぎないデザインのものをさがして、プレゼント用に包んでもらった。こんど会う時に渡せばいいだろう。それまでのあいだに、私はリストランテの記事を書き上げ、次に取材するお店の候補をいくつかえらんだ。
そうして何日か経つと、私はいつのまにかハンカチを買ったことを忘れてしまっていた。電話番号を貰ってすぐに連絡するのも気が引けて後回しにしているうちに、そのまま忘れてしまったのだ。頭のどこかでは憶えているのだが、仕事をしながら日々を過ごしているうちに存在感が薄れてしまう。
ある日の仕事の帰り道、私はようやくハンカチの存在を思い出し、彼に電話をかけた。
『――はい。安室です』
数秒のコール音のあとに記憶と変わらない声が聞こえてきて、私は自分の名前を伝える。彼は私の名前をくりかえしてみせ、「連絡がないから忘れられたのかと思ってました」と笑った。
「ごめんなさい。ちょっと仕事でばたばたしてて」
『大丈夫ですよ。お仕事はもう落ち着いたんですか?』
「はい。あの、安室さんって、今日はポアロにいますか? それともレストランのほう?」
ポアロに出勤の日だったらこのまま向かおうと思っていた。しかし、電話のむこうはやけに静かだ。もしかしてお休みだろうか、と考えながら返事を待つ。
『今日はもう上がってしまって、帰るところだったんです』
耳を澄ますとエンジンとウインカーの音が聞こえてきて、彼が車の中にいることがわかった。わざわざ停めてもらっているのなら申し訳ない。早く電話を切り上げようと、私は用件を急いだ。
「明日はどうですか?」
『明日は休みですが……もしかして、いま近くですか?』
「はい」
『どのあたり?』
「小久保駅です」
『じゃあ、そのままそこにいてください。十分ほどで着きます』
私がどう返事をすべきか迷っているうちに、彼は電話を切ってしまった。そこにいろ、と言われたので、私は大人しく彼が来るのを待った。
駅前はちょっとした広場になっていて、通りを行き交う車がよく見えた。ちょうど十分が経とうという頃、白いスポーツカーがエンジン音を響かせながらロータリーに入ってくるのが見えた。なんとなく目で追っていると、運転席から見知った顔が出てきたのでぎょっとした。慌てて駆け寄ると、向こうもすぐに私に気づいた。
「安室さん」
「すみません、お待たせして」
「いえ……」
「じゃあ、行きましょうか」
「え?」
助手席のドアを開けられ、流れで乗り込む。そうじゃない。気づいたときにはもう遅く、ばたんとドアが閉められ、彼も運転席に戻ってきた。
「あ、あの、安室さん?」
状況が飲み込めないまま、ゆっくりと車が発進する。からだがシートに沈む感覚。私は考えるのをやめ、この車がどこか目的地に辿り着くのを待った。
十五分ほど車を走らせて米花町にやってくると、彼はコインパーキングに車を停め、そこからすぐのところにあるプールバーに私を案内してくれた。米花町へは何度も足を運んでいるが、こんなお店があるのは知らなかった。
「行き先が米花町ってわかってたら行ったのに」
「僕ももう近くまで来ていたので。待ち合わせるより早かったと思いますよ」
お店に入るなり目に飛び込んできたビリヤード台やダーツボードを見て私は困惑した。ビリヤードやダーツなんて、今まで生きてきてやったことがなかったからだ。固まっている私に気づいた安室さんが、視線の先を追いかける。
「したいひとは向こうでプレーできるってだけで、お酒を飲むだけのひともいますよ」
「よく来るんですか?」
「たまに。僕も人から教えてもらったんです。雰囲気がよくてお気に入りで」
たしかにそれはわかる気がした。初めて来たけれど、へんに形式ばってなく、気安い感じがする。
彼は本当にここへよく来ているらしく、若い女性バーテンダーとは顔見知りのようだった。注文したジントニックが運ばれてくると、私は一気に半分ほど飲み干した。
「いい飲みっぷりですね」
「最近飲んでなかったので……安室さんは、お酒強いんですか?」
「人並みだと思いますよ」
ふうん、と相づちを打って、ふたたびグラスのふちに口をつける。安室さんも私と同じものを飲んだ。
「安室さんってフリーターなんですか?」
「フリーター……、まあ、そういうことになりますよね」
「ポアロと、あのグランメゾンと、探偵と、忙しくないですか?」
「そうでもないですよ。飲食店はアルバイトですし、探偵は駆け出しですから」
そういうものなのか、と考える。私はかけもちで仕事をしたことがないのでそのあたりの感覚はわからなかったけれど、彼にはそれが合っているんだろう。ひとつのことにしか集中できない私は、器用な安室さんがちょっと羨ましい。最初に会った時は高級レストランのスタッフとしてきびきびと動き、喫茶店では親しみやすい店員さんの顔をしていた。同じひとだけれど、スイッチの切り替えがとても上手い。今までにも色んな仕事をしてきたのかもしれない。
「そうだ」
二杯目のジントニックを飲みながら、私はかばんの中に入れてきていたプレゼントのハンカチを取り出した。机のうえに置いていたのを今朝持ってきたばかりなので、包装紙はきれいなままだ。
これは? と訊ねるような視線を投げかけられ、私は「この前のお礼です」と付け加えた。
「開けても?」
私はうなずいた。たいしたものじゃないけど、という前置きはしたが、目の前で開けられるのはやっぱり緊張する。選んだのは落ち着いたブルーのハンカチで、さがしている時に彼の目の色を思い出したのでそれに決めた。
「……かえって気を遣わせてしまいましたね」
「いえ! 私が勝手にやってるので。きちんとしたお礼が遅くなってすみません」
「ありがとうございます。大事に使いますね」
改めて頭を下げると、安室さんはあの時みたいにくすくすと笑った。
私がふたたびあのグランメゾンを訪れることはなかったけれど、喫茶店には以前よりも頻繁に通うようになった。お店に行くと、梓さんや安室さんが明るく出迎えてくれる。私はポアロで飲むコーヒーや彼らのいる空間がとても好きだった。
ある日の午後、私は彼らにポアロを取材させてほしいと申し出た。こんど発行するグルメ雑誌でぜひポアロのことを紹介したいと思ったのだ。梓さんはすこし考え、マスターに聞いてみないと、といって返事を保留にした。マスターはめったにポアロに顔を出さないので、連絡をとってくれるらしい。
数日後、梓さんから連絡があり、取材は問題ないということだった。当日はマスターもお店に来てくれるらしい。日にちを決め、簡単に取材の概要について伝えて電話を切った。
取材の当日になってポアロを訪れると、そこに安室さんの姿はなかった。今朝急に連絡があり、風邪をひいたので今日はお休みになってしまったということだった。残念だけど仕方がないので、マスターと梓さんに話を聞き、取材は無事に終了した。
その日の夜、私はひさしぶりに一人でお酒を飲んだ。最近は常に誰かと一緒だったので、飲みすぎないよう気をつけてグラスを空にしてゆく。お店にいたのは二時間ほどで、そのあいだに私はゆっくりと時間をかけてお酒を楽しんだ。
いい気分で駅に向かって歩いていると、がたん、と突然大きな物音が聞こえた。音がしたのは大通りに面した細い小路で、どんと大きなものが倒れる音、からんからんと金属が転がるような音がする。それに、ひとの声も。
ふだんなら絶対に近づかないのに、この時の私は酔っていて、女のひとが絡まれているかもしれないという軽率な考えで音のほうへと向かっていった。誘われるように路地裏へ入ると、表の喧騒がすっと遠くなる。空気はどこか冷たく感じられ、じめじめとしていた。通りにはスナックや居酒屋が何軒か並んでいて、ここはその裏口側になるのだけれど、ひと気はなく、お酒の空き瓶やその破片、明日の朝収集されるであろうごみなどが視界に入った。
その時、急に勝手口のドアが開いて、ひとの影がみえた。おどろいて身を固くしていると、そこから出てきた人物に思わず目を瞠った。
「安室さん……?」
「……どうも、こんばんは」
私と安室さんのあいだには数メートルほどの距離があったが、私に気づくと、彼は視線をこちらに向けて穏やかにほほ笑んだ。いつもと同じはずなのに、どこか硬質な雰囲気をまとっている。私は固まったまま何も言えなくなってしまった。
彼は白いワイシャツの上に黒のベストを着て、ベージュのパンツを穿いていた。襟元にはループタイのようなものが見える。あまり安室さんらしくない格好だった。
今日は風邪をひいてポアロはお休みだと聞いていたけれど、どうしてこんなところにいるのだろうか。もしかしたら、急な欠員でレストランのほうに呼び出されたのかもしれない。でも、ここはレストランからは離れている。このあたりに何か用でもあったのだろうか。風邪をひいているのに? そんな格好で?
黙ってしまった私を不審に思ったのか、彼は長い脚を一歩こちらに踏み出して距離を詰めた。たった一歩だけれど、さっきよりもずっと近い。もう一歩進めば、あっという間に捕まえられてしまう。
「こんなところでどうしたんです」
彼はいつもと同じく、私を気遣うように声をかけてきた。まるで私がここにいることのほうが不思議だとでもいうように。そして私は、本当にそんな気がしてくるのだった。どうして私はここにいるんだろう。どうして彼のことがこんなに怖いのだろう。
いつもと同じ? はたして、本当にそうだろうか。
よくよく見れば首もとは肌蹴て、タイはぶら下がっただけの状態だ。急いで支度をして出てきたような、情事の後のような雰囲気さえある。白い手袋はまるで完全犯罪だ。
息を吸い込むと、湿った空気にまじって強い香水の香りがした。あの時とは違う香水。くらくらする。……ここにいるのは本当に安室さんなのだろうか。
「女性の夜の一人歩きは危ないですよ」
「は、い」
「帰れますか?」
「……はい」
さあ、と背中を押され、私は歩き出す。御伽噺に出てくる魔法使いに、魔法をかけられたみたいだった。後ろを振り返ってはだめだといわれたような気がして、来た道を引き帰しながら、私は早足で駅へと向かった。
この夜のできごとは、悪い夢なのかもしれない。寝て起きたら、きっとさっぱり忘れていて、私は何も憶えていない。
ブルーのハンカチのことを思い出す。あのハンカチにも、香水が吹きかけられているのだろうか。使っているのだろうか。私のことを思って? わからない。それを確かめるすべはない。
あの夜の香りは、もうしなかった。
2018.09.17 -> 2020.11.22
男と女
「ううん。……いいよ、お仕事なんでしょ? ……うん。大丈夫だよ。じゃあ、気をつけてね」
通話を終え、わたしは盛大に溜め息をついた。これで何度目だろう。もしかしたら、という思いはあったけれど、それでもせっかく作ってくれた時間だったから、昨日は早めに寝て、朝もかんぺきに身仕度を整えて出てきた。ひさしぶりに会えると思ったから。
わたしの恋人は安室透という。探偵で、それもまだ見習い中らしいのでほかにいくつかのアルバイト――喫茶店や、イタリアンレストランや、いろいろ――をしながら依頼を受けている。二十九歳でそれはかなりやばいのだが、パチンコや煙草にお金を使っているわけでもないので、まあいいかと交際を続けている。
アルバイトのシフトの融通はきくけれど、探偵業の依頼となるとそうもいかない。何せまだ駆け出しだ。仕事がくるだけでもありがたいそうだ。今回は弟子入り先の先生(なんとあの毛利小五郎に師事しているのだ!)に同行するらしく、わたしは今しがた振られたばかりだ。せっかく今日はアイメイクがうまくいったのに。もったいないから、このまま出掛けてしまおう。
いつか彼が眠りの小五郎のように活躍する日がくるのだ。あるいは、高校生探偵の工藤新一みたいに。
わたしはいつまで「物分かりのいい彼女」のふりをしなきゃいけないんだろう。
透くんには秘密が多い。
わたしがそれに気づいたのは付き合いはじめて半年が経ったころのことで、それまでどうして気にならなかったのか、不思議なくらいだった。
人当たりがよさそうに見えて相手とは一定の距離を保っているところとか、こちらのことはよく知っているのに自分のことは何も話さないところとか、いちど違和感をおぼえると、気になることはいくつもあった。探偵だし、喫茶店で働いているし、聞き上手と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。でも、それにしたってわたしは、このひとのことをなにも知らない。休日の過ごし方や誕生日、出身地、大学での専攻、喫茶店の前はどこで働いていたのか。そういう話を、彼としたことがなかった。知りたいかと聞かれると、別にそういうわけでもない。世間話をしていたら辿り着くような内容だ。だけど今まで一度もそういう話になったことがないのだ。気がつかないくらい自然に、話を逸らされたか、すり替えられていたのだろう。
わたしが何も言わないのは、とくに不都合があるわけではないからだ。彼について知らないことが多いだけで、浮気をされているわけでも、困っているわけでもない。そりゃあ気にはなるけれど、言いたくない理由があるのかもしれない。プライベートを詮索して、嫌な思いをさせたくない。だからわたしは興味がないふりをする。そうすれば、ずっとあのひとの彼女でいられると思ったから。
*
次に透くんと会ったのは、最後に会ってから一ヶ月後、何度目かのドタキャンから二日経った日のことだった。こんなに短いあいだに何度も連絡がくるのは珍しい。二日前は都合が悪くなった旨の電話だったから本当は怒るべきなのだろうが、単純なわたしは喜んだ。そしてすぐに「これから来るの?」とひっくり返った声をあげてしまう。
『あ、都合が悪いなら、今日じゃなくても……もともと僕のせいですし、予定が合えばと思っただけなので』
「ううん、大丈夫。……部屋散らかってるけどいい?」
『気にしませんよ』
「じゃあ、待ってるね」
『はい』
通話を終えると、わたしはいそいで部屋を片付けはじめた。幸いにも、件のドタキャンの際に予定がまる一日空いてしまったわたしは、早めに帰って家の掃除をしたばかりだった。とはいえ、部屋は日々散らかってゆく。洗濯物を畳み、お風呂を沸かして、散らばっていたバッグや雑誌をもとの位置にしまうと、とりあえずはひとに見せられる状態になる。冷蔵庫の中身がないことに気づいたところでインターホンが鳴り、つい悲鳴をあげそうになった。
「あれ」
玄関のドアを開けると、透くんはスーパーの袋と白い紙袋を両手に提げていた。
「冷蔵庫、何もないと思って」
「よくわかったね」
「なんとなく。入っても?」
「どうぞ」
彼は買ってきた材料でてきぱきと夕飯をつくってくれた。トマトとツナのパスタに、アボカドのサラダ。つまみにはいくつかのチーズを。彼が買ってきてくれた白ワインを開けて、ひとりのときよりも豪華な食事を楽しんだ。おいしい、というと、彼は「よかった」とにっこりと笑う。喫茶店でアルバイトをしているだけあって料理の手際もよく、わたしの胃はすぐに満たされた。明日の朝は、今日買ってきたバゲットでフレンチトーストを作ってくれるという。前にもらったオレンジのコンフィがまだあるはずだから、一緒に食べるのもいいかもしれない。
「実はケーキも買ってきました」
「……なにかのお祝いだっけ」
「いえ。でも、美味しそうだったので」
「本当だ」
箱の中を覗き込むと、宝石みたいにかがやくケーキがふたつ入っていた。きっとワインによく合うだろう。彼はこういう組み合わせを選ぶのがとても上手だ。
どこかへ行かなくても、二人で食事を楽しめる。どうして連絡をくれたの? 仕事は? 明日はお休みなの? 聞きたいことはたくさんあったけど、どれも言葉にはならなかった。お腹いっぱいになったときにはもう、すべてがどうでもよくなっていた。せっかく二人でいるのだから、わたし以外のことを考えてほしくない。
ゆっくり過ごせるのがうれしくて、この日はわたしの部屋の狭いベッドで、ひさしぶりに一緒に眠った。
初めて会った日のことを、わたしはよくおぼえている。
喫茶ポアロはわたしがたまに訪れる場所で、探偵事務所の下に店を構えた、いかにも喫茶店らしい喫茶店だった。街中にあふれるカフェよりも喫茶店のほうが落ち着くので、ちょっと駅から離れているのが難点だったけど、そんなことはお構いなしにポアロへと通っていた。
その日は水曜日で、朝から雨が降っていた。それだけでも憂鬱だというのに、先月末に残した仕事が終わらなくて月のはじめから残業もした。疲れきっていたわたしはとにかく暴力的に甘いものが食べたくて、仕事終わりに雨のなかをずんずん歩いてポアロに向かった。行くのは半月ぶりで、わたしにしては珍しく間が空いた。
からんからん、とドアベルを鳴らしてお店に入ると、お客さんはだれもいなかった。混雑する時間はとっくに過ぎていたし、今日は雨だから、なおさらひとがいないのだろう。
「いらっしゃいませ」
いつもどおりカウンター前の席に座ろうとすると、男のひとから声をかけられ、おどろいて顔を上げる。カウンターの中には、わたしの知らない店員さんがいた。にっこりと笑いかけられ、こちらの顔はさぞこわばっていたことだろう。こんにちは、と素っ気ない返事をして、結局、窓際から二番目のテーブル席についた。
わたしの知るかぎり、ポアロで働いているのは、滅多にお店に顔を出さないマスターと、女性店員の梓さんだけだ。この男性は初めて見る。この時間はお客さんも少ないし、お店にいるのはこのひとひとりだけなのだろう。新しくバイトのひとを雇ったのだろうか、などと考えながら、メニューの中からまっ先にフルーツパフェを頼み、ぼんやりと窓の外を眺めた。かばんのなかには先日買ったばかりの文庫本が入っていたけれど、わたしはすっかり疲れてしまっていたので、それを読む気にはなれなかった。
雨粒が窓ガラスに叩きつけられ、重力にしたがって下に落ちてゆくのを見ているうちに、フルーツパフェが運ばれてきた。その時間は短かったようにも、とても長かったようにも思われる。時計を見ていなかったから正確な時間はわからないけれど、きっと五分も経っていないだろう。
ここのパフェは喫茶店のそれらしい見た目をしていて、わたしはいつもホットサンドやケーキとドリンクのセットばかりを頼んでいるので、パフェを食べるのは今日がはじめてだ。レトロなかたちのグラスに、みかんやパイナップル、キウイ、バナナ、りんごがぎっしりと乗っかり、真ん中にはバニラアイスが鎮座している。そのすき間を埋めるようにホイップクリームとチョコレートソースがデコレーションされ、グラスの下のほうにあるコーンフレークにまでかかっているのがたまらない。これぞ正統派のパフェだ。
普段のわたしなら一緒にコーヒーを頼むところだけれど、カフェインを摂る気にはなれず、パフェのみを単品で注文した。お腹がすいていたわたしはものの十分足らずで完食し、水もいっきに飲み干した。
「ごちそうさまでした」
店にいた時間は三十分ほどで、大量の糖分を摂取して満足したわたしはさっさと席を立った。レジでお会計をお願いすると、さきほどの知らない男性が対応してくれたので、やはりこの時間は彼しかいないのだろう。入ったばかりの人間に店を任せて大丈夫なのだろうか。いや、大丈夫だから任されているのだろう。
両手で包みこむようにお釣りを渡され、おどろいて見上げると、ばっちりと目が合った。今までに見たことのない、まるくてきれいなブルーグレーの瞳。そこでわたしは初めてきちんと彼を見た。彼もまっすぐにわたしを見つめている。雨の降る夜、水曜日の喫茶店で、憂鬱な気分はもうどこかへいってしまっていた。
「ああ、彼、安室さんっていって、最近新しく入ったひとなんです」
その次の日も、わたしはポアロにいた。友人との待ち合わせまで時間があったので、昨日は頼まなかったコーヒーを飲もうと思って入った。昨日の男のひとはいなくて、いつもの梓さんがいた。
「前にも飲食店のバイトをしてたみたいで、即戦力で助かってます」
「そうだったんですね。梓さんいないし、知らないひとだったのでちょっとびっくりしました」
わたしは思ったことを正直に伝えた。たしかにそうですよね、と梓さんが笑う。
「サーファーかと思いました」
「ね。湘南あたりにいそう」
それから何度かポアロに行くうちに、わたしは少しずつ安室さんとも話すようになった。カウンター席に座り、お客さんが少ない時は仕事の邪魔にならない範囲でとりとめのない話をした。余程のことがないかぎりわたしはいつもコーヒーを注文していたので、ある日、オーダーを取りにきた彼に「好きなんですか?」と聞かれた。
「え?」
「コーヒー。いつも頼んでますよね」
「好きっていうか、飲みなれてるっていうか……」
家でも外出先でも、わたしはコーヒーをよく飲んだ。とくにあのお店のがいいというこだわりはないけれど、ポアロのコーヒーはおいしいと思う。きっと好きなんだろう。
そのうちいい香りが漂ってきて、サイフォンでていねいに淹れられたコーヒーが出てきた。カウンターに立つ安室さんはすっかり慣れた様子で、梓さんが前に言っていたことがわかる気がした。
「どうですか?」
「うん。おいしい」
コーヒーでも紅茶でも、飲むならうんと熱いのがいい。ポアロのコーヒーはまさにそれで、氷をいれたほうがいいんじゃないかと思うくらいだ。でも、ぬるいのを飲むくらいなら、わたしは火傷するほうを選ぶ。
「よかった。そういってもらえるとたくさん練習した甲斐があります」
「安室さんでも?」
「どういう意味ですか?」
「前に梓さんが、安室さんは要領がいいって言ってましたよ。前も飲食店で働いてたんですよね?」
「よく知ってるなあ。料理は練習すれば何とかなりますけど、コーヒーって、こういうところにいないとじっくり淹れる機会ってないでしょ」
「まあ、そうですね」
わたしも、家で飲む時はもっぱらインスタントだ。マグカップに粉を入れて、お湯を注いでかんたんに済ませてしまう。
「いろいろ勉強してたので、活かせてよかったです」
「研修とかあるんですか?」
「基本はマスターに教わりましたけど、外部の講座にも行きましたよ。あとは、他のお店のを飲んでみたりとか」
「じゃあ、いいお店があったら教えてください」
そういうと、安室さんはしばらく考えるようなそぶりを見せ、それから口を開いた。
「よかったら、一緒に行きませんか」
「えっ」
「もしよければ、ですけど」
安室さんが悪戯っぽく笑うと、少しどきどきした。この頃には「ポアロの安室さん」の噂はいろんなところに広がっていて、イケメン店員だとか、彼がレシピを考案したハムサンドや半熟ケーキが人気だとか、いろんな話を聞いた。梓さんと付き合っているという噂もあり、わたしもそう思っていたのだけれど、実際のところは違うらしい(梓さんはそのせいで女子高生たちに睨まれてひやひやすると言っていた)。
わたしはうなずき、それから「ぜひ」と返事をした。おいしいコーヒーのお店は魅力的だったし、彼のこともそうだった。
わたしたちはポアロの外でも会うようになり、コーヒーを飲みにいき、ときには彼の車で家まで送ってもらった。付き合うようになるまで、そう時間はかからなかった。それはごく自然のことのように思えた。なんとなく、そうなるのがわかる時がある。「ぜひ」と返事をしたあの日から、きっとこうなることは決まっていたのだ。
その日は彼と休みをあわせ、午前中からコーヒーショップめぐりをした。午後から待ち合わせることもあれば、今日みたいに朝から出掛けることもある。いつ飲んでもおいしいけれど、やっぱり、朝一番に飲むコーヒーがいっとうおいしい気がする。ひとの淹れてくれたコーヒーならなおさらだ。
お昼は、米花町から車を三十分ほど走らせたところにある小さなイタリアン・レストランに行った。わたしはトマトとベーコンのパスタを、彼はマルゲリータを頼み、ノンアルコールのワインで乾杯した。はじめて入ったお店だったけれど、店内は明るく開放的で、庭のみどりがうつくしかった。
彼は相変わらずていねいな物腰だったけれど、わたしの口調はくだけたものになっていた。彼は二十九歳で、わたしよりふたつ年下だった。本人から聞いたのか、梓さんから教えてもらったのかはおぼえていないが、後輩や弟みたいなかわいさがある。わたしのことを変に年上の女性として扱わないのも、好きなところのひとつだった。
「午後はどうします? どこか行きたい場所とかありますか?」
「うーん……あ、じゃあ、ここは?」
わたしはスマートフォンを彼に見せた。つい最近見つけたお店で、彼が今見ているのはそのSNSのページだ。
「コーヒーのお店なんだけど、ケーキとかスコーンもおいしそうで気になってたの」
「いいですね。ここからそんなに離れてないですし、行きましょう」
それならここではデザートは頼まないで、これから行くお店で食べようということになった。わたしと彼はそういうところの波長が合ったので、どちらかに行き先を任せたり、適当な返事をしたりするようなことはしない。一緒にいて居心地がいい、というのが当てはまるような関係だ。おそらく彼も同じことを思っているだろう。
彼が指についたマルゲリータのソースを舐め取るのを、わたしは黙って見つめていた。
わたしたちはときおり、はじめて出会った日の話をした。彼の車の助手席で、わたしは狭いシートにおさまっていた。外では雨が降っていたから、あの日のことを思い出したのだ。
「雨で誰も来ないから、今日はもうおしまいかなって思ってたらあなたが来て、コーヒーも飲まずにパフェだけ頼んで、すごい勢いで食べてるからびっくりしちゃいました」
「わたしも、知らないひとがいてびっくりした。お客さんもいなかったし」
「ちょっと運命的でしたよね」
わたしはおどろいた。彼が「運命」などという言葉を使うなんて思わなかったからだ。
「どうしたんですか」
「ううん。……なんでもない」
わたしのアパートまではもうすぐで、あたりはもうすっかり夜になっていた。膝のうえには、今日買ったコーヒー豆とチョコレートのはいった紙袋がある。以前、コーヒーミルをプレゼントにもらったので、豆を挽いて飲むのが休日の楽しみになっていた。
車がアパートの前に到着すると、わたしは彼にお礼を言った。雨はまだ降り続いていたので、降りたら屋根のあるところまで走らなきゃ、と思うと、ぎりぎりまで車内にいたほうがいい気がした。
「今日はありがとうございました」
「ううん、こっちこそ」
「また連絡します」
シートベルトを外して車から降りようとすると、彼がわたしの腕を引いた。低いエンジン音が、夜の住宅街に響いている。
おどろいて振り向くと、彼はからだをこちらに乗り出して、わたしにキスをした。一瞬の出来事だったので、彼がどんな顔をしていたのか、わたしはよくわからなかった。ただ、くちびるがふれあう感触はひさしぶりだな、と思った。
「透です。僕の名前。安室透」
「……透くん」
名前を呼んだのは、これがはじめてだった。彼の名前は知っていたけれど、ずっと苗字で呼んでいたから、きちんと発音できるかわからなくてすこしだけ緊張した。口にしてみると、その名前はすっと馴染んだ。
「……うちに来る?」
迷子の犬に声をかけるみたいに、わたしは彼に訊ねた。うん、とうなずいた男は、年齢よりもずっと幼くみえた。
大きな、かさついた手がわたしの冷えた腕を撫でる。その手はあたたかく、熱をもっていた。
「寒いですか?」
「ううん……」
くしゃみをすると、透くんは苦笑いを浮かべた。雨はもう止んでいたが、夜のうちにずいぶんと気温が下がったらしい。寝ぼけているようすのわたしを、彼は面白い生き物でも見つけたかのように観察していたが、やがてそれにも飽きたのか「ちょっと台所借りますね」といってベッドを抜け出した。どうやら朝食を作ってくれるらしい。
冷蔵庫を開ける音がしたが、役に立ちそうなものは入っていただろうか。毛布にくるまって豆を挽く音を聞いていると、そのまま寝てしまいそうになった。
「コーヒーって、九十度くらいで淹れるとおいしいんですよ」
うとうととまどろんでいたわたしは、彼の言葉でふたたび目を覚ました。すこしのあいだ眠っていたらしい。テーブルの上には、サンドイッチとコーヒーが用意してある。どちらもおいしそうだ。
「九十度? 沸騰させちゃ駄目なの?」
「沸騰してから別のポットに移し替えると、ちょうど九十度くらいになります」
「いつも熱湯いれてた……」
「それでおいしかったなら大丈夫だと思いますよ」
わたしは透くんが作ってくれたたまごサンドを食べ、コーヒーを飲んだ。ポアロとは違う味。わたしのためだけに作られたもの。自分でもたまにサンドイッチを作るけれど、わたしのとはべつの味がする。これもとてもおいしい。ベッドの隣に座った彼はわたしが一口食べたのを見届けてから、同じようにサンドイッチを頬張った。
「透くんって、スパイスからカレー作ってそう」
「ええ?」
「作ったことある?」
「ないですよ。レトルトならよく買ってますけど」
「わたしも。無印のとか好き」
「僕もです」
今日は午後からポアロでバイトだというので、朝食を食べたあと、玄関まで彼を見送った。一度家に帰り、着替えてから向かうのだという。
彼が帰ってしまうと、わたしはもう一度ベッドにもぐりこんだ。シーツはまだあたたかく、コーヒーの匂いがする部屋はカーテン越しの朝のひかりにみちて、幸福そのものだった。
透くんと会うペースはまちまちで、一週間に一度会う時もあれば、一ヶ月ほど間隔が空く時もあった。会うのは外か、わたしの部屋だ。彼の家には行ったことがない。もともとわたしは淡白なほうだったので、適当なタイミングで連絡が取れればよかったし、頻繁に会えなくてもとくべつ不安はなかった。
ポアロには変わらず通い続けていたが、わたしたちは今までどおりに接した。話し合ったわけではないけれど、公にすべきことではないと、お互いにそう感じていた。わたしたちは変化を好まなかった。梓さんにそういう目で見られるのも、女子高生たちに噂されるのも、ふたりのどちらも望んでいなかったから。
透くんとはときどき、連絡がとれなくなることがあった。仕事が忙しくなるといって、本当にぱったりと連絡が途絶えてしまうのだ。そのあいだはポアロに行っても彼はお休みで、梓さんも詳しくは知らないのだという。
『すみません、急な調査の依頼が入ってしまって』
今日は一ヶ月ぶりに会う約束をしていたのだけれど、朝一番にかかってきた彼からの電話で、それはなくなってしまった。電話の向こうからは困ったような声が聞こえてくる。
「しょうがないよ」
『本当にすみません。起こしちゃいました?』
「うん。……朝早いんだね」
『すみません。この埋め合わせは必ずするので』
「うん、また今度。がんばってね」
わたしは眠たげな声を隠しもせずに彼との電話を終えた。スマートフォンのディスプレイを見ると、まだ朝の五時だ。……こんな時間から調査の依頼なんて入るものだろうか。まだ眠っていたかったわたしは、持っていたスマートフォンを手放してふたたびベッドに沈んだ。
四月も終わりに近づいたある日、国際会議場で大規模な爆発があった。翌月におこなわれるサミットを狙ったテロだという報道もあったけれど、当日ではないことから事故の可能性が高いらしい。ワイドショーは連日その話ばかりで、監視カメラに映っていた爆発の様子は何度もくりかえし流された。
五月一日、わたしはひとりで休日をすごしていた。公開したばかりの映画を観に行き、買い物でもして帰ろうかと思っていた矢先に、電化製品の発火現象が都内で多発しているというニュースを知った。わたしのスマートフォンは無事だったけれど、運の悪いことに、わたしのいる場所が避難区域に指定されてしまい、東京湾の埋立地に移動することになった。原因不明の発火現象に、無人探査機のカプセル落下。どれも現実味がなく、心がざわついた。まさか自分がこんな目に遭うなんて、想像したこともなかった。こんなのは映画の中だけの話だと思っていた。大型人員輸送車に乗って新しくできた商業施設に向かうあいだ、わたしはずっと連絡の取れない彼のことを考えていた。
だからだろうか。避難指示が解除された帰り、埋立地の国際会議場の近くで彼を見つけた。はじめは見間違いだと思ったのだけれど、彼は確かにそこにいた。
「透くん?」
どこか信じられない気持ちで名前を呼ぶと、彼もわたしの存在に気づいたようだった。
「……どうしてここに」
「透くんこそ……」
彼からはガソリンと煙と、血の匂いがした。どうやら怪我しているらしく、わたしの視線に気づくと、弱々しく笑いながら眉を下げた。
「さっき、大きな音したでしょ。あの時、落ちてきた破片で切ってしまったみたいで」
「病院とか……」
「こんな時間ですし、それほど大した怪我じゃないですから。家で手当てできます」
家、といわれたが、わたしの部屋には救急箱なんてものは置いていない。そこでようやくわたしは、それが彼の家を指していることに気がついた。わたしの知らない透くんの部屋。
タクシーを拾って向かった彼の家は、想像していた場所とまったく違っていた。てっきり米花町近くにアパートを借りているものだと思っていたけれど、着いたのは高そうなマンションだった。エントランスを抜けてエレベーターにのりこむと、わたしたちをのせた箱は見たことのない数字に向かってぐんぐんと昇っていった。
「ここに住んでるの?」
「僕のじゃありませんが。知り合いの部屋なんです」
「どういう知り合いなの?」
「そんな面白い関係ではないですよ。大学時代の友人が不動産業をやっていて、探偵の仕事で使っていいと言われてるんです」
「借りてるってこと?」
「今日は質問が多いですね。そう、彼の部屋を僕が使わせてもらってます」
来ることはほとんどないんですけどね、と言ったとおり、鍵を開けて中に入ると、生活感のない部屋が広がっていた。物が少なく、最低限過ごせればいいという感じだ。ホテルのほうがまだ暮らしやすいかもしれない。
夜は暗く、ジャケットを着ていたから気づかなかったけれど、それを脱ぐと、白のサマーニットが血で赤く染まっていた。
「血、大丈夫ですか。気分が悪くなったら言ってください」
「うん……」
「見た目はひどいですけど、傷はそんなに深くないんです。本当に」
彼は平然と落ち着き払っていて、わたしのほうが動揺していた。彼は終始冷静なまま、血はもう止まっているから、あとは傷口を手当てすればいいだけだと、適切な処置の仕方を教えてくれる。
上はすべて脱いでしまって、ついていた血を軽く洗い流した後、ガーゼを傷口にあてて包帯で固定した。怪我の手当てなんてしたことがなかったけれど、教えてもらいながらなんとか終える頃には、夜もだいぶ深まりかけていた。
「ありがとうございます。助かりました」
「ううん。あの、うまくできたかわからないし、もし痛むようなら早めに病院に行ってね」
「はい」
今からなら終電より早く家に帰れるだろう。立ち上がり、「お大事に」と伝えて部屋を去ろうとすると、強い力で腕を引かれた。
「帰るんですか」
非難するような声色だった。拗ねているのとはちょっと違う、いままでに聞いたことのないような切羽詰まった声。
「透くん?」
「傍にいてくれ」
澄んだ青色をした双眸が燃えている。切実な懇願に圧倒され、わたしはうなずくことしかできなかった。
その夜は何もせずに、狭いベッドの上で身を寄せ合い、清潔なシーツにくるまってじっと息をひそめた。長い一日だった。いろいろなことがありすぎて疲れているはずなのに、どうしてかお互いなかなか寝られずに、ようやく眠気がやってくるころには、空はうっすらと白みはじめていた。
あの日の夜から、少しずつ変わったことがある。
まず、連絡がとれなくなることが増えた。そういうきらいはあったけれど、最近はとくに多い。聞いてみると、もうすぐ探偵として独立できそうなのだという。
「毛利さんにも認められるようになってきて。あと少しなんです」
がんばっている彼の顔を見ると何もいえなくなってしまい、ただただ応援することしかできなかった。
もうひとつ、会う機会が少なくなった。というか、避けられているような気がする。毛利先生のお手伝いで、梓さんが体調崩しちゃって、依頼人との打ち合わせで――。嘘だというのは明らかだった。いや、ひとに聞いたらばれるようなものは、本当にそうなのかもしれない。だけど、探偵の仕事についてはノータッチだから、嘘か本当かわからない。そして、たぶん嘘なんだろうな、という確信があった。
「わたしのことどう思ってるんだろう」
女子会の席でぽつりと零すと、友人たちは目を輝かせて話に食いついてきた。わたしだって否定はしないけれど、彼女たちは恋の話がとっても好きなのだ。
「結婚とかは考えてないの?」
高校時代の友人たちには、付き合っている恋人がいることを伝えていた。彼女たちはもう結婚しているか、間もなく結婚する予定があって、話題はいつも自分に向けられた。
「うーん……わたしはいいんだけど、彼はそうでもないみたい」
「年下だっけ? 男はいいけど、こっちとしてはそんなに待てないよね」
「向こうにその気がないなら次のひと探さないと、なかなか難しいよ」
そうだよね、とわたしは適当に相づちを打った。結婚。周りがそうだと、自然とそういう話になってくる。難しいって、いったい何が難しいんだろう。
わたしは平凡な女だったので、なんとなく、自分は結婚するんだろうなと思っていた。とくべつ願望があるわけではないけれど、彼と結婚することを考えなかったわけではない。
「彼氏、何してるひとなんだっけ?」
聞かれるたびに、上手く答えられずに誤魔化してきた。二十九歳でフリーター? ないない。やめときなよ。探偵って、儲かるの? だいじょうぶ?
会ってみたい、と何度か言われているけれど、予定が合わないからといつも断っていた。実際、彼は忙しかったし、 本当のところは友達に紹介できないと思ったからだ。
でも、彼のことをそういうふうに見ている自分がいちばん嫌だった。そういう後ろめたさから、問い詰めることすらできやしない。本当は何をしてるの、どうして嘘をつくの、わたしのことどう思ってるの。
「そのひと、いったい何者なの?」
親しい友人に相談した時、彼女は心の底からわたしを心配してくれた。
「変な男とくっついてほしくないよ。本人がいいならそれ以上は言えないけど……でも、いやな思いをするところは見たくない」
わたしも、彼女の立場だったらきっと同じことを言うだろう。同じようにわたしのことを思ってくれているのが、何よりもうれしかった。
「ありがとう、だいじょうぶだよ。わたしが決めることだから。何かあったら男を見る目がなかっただけ」
「じゃあ、本当に悪い男だったら、一発殴りにいくから連れて行ってよね」
笑うわたしを見て、彼女もようやく笑顔をみせた。
自分に言い聞かせるように、わたしはいった。だいじょうぶなのだ。彼の仕事のことも、わたしの結婚のことも。
彼と夜を過ごすのは久しぶりだった。わたしの家の、わたしの部屋のベッドのうえで。
わたしは彼に、先日会った友人たちの話をしていた。核心には触れなかったけれど、彼のことを紹介したかったし、そうすれば何かが変わるかもしれないと思って、彼女たちが会いたいと言っていたことを伝えた。
「いいですね。会ってみたいな」
「……本当に?」
わたしはおどろいて、思わず起き上がって彼に訊ねた。毛布が落ちるのも、胸元をさらけだしているのもかまわずに。「寒いでしょ」と彼は笑い、わたしをベッドに引き戻した。
「その日はバイトの予定も入れないし、探偵業の依頼も受けません」
「いいの?」
「もちろん」
わたしはさっそく友人たちに連絡して、彼を紹介するための簡単な食事会を開くことにした。
お店を選んで予約を入れ、指折り数えてその日を待った。
だけど、約束の日、彼は来なかった。
友人たちは慰めてくれたけれど、惨めで情けなくて、涙が出そうになった。それと同時に、胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。集まってくれた彼女たちは気にしないでいいよ、と言ってくれたけれど、もう無理だと思った。これ以上は、わたしがだめになってしまう。
翌日になってようやく、彼から電話があった。昨日は本当にすみませんでした。連絡も入れられなくて……。彼の話を、わたしは黙って聞いていた。もう怒る気にもなれなかった。
話の終わりに、透くん、と名前を呼んだ。大好きなひとの名前なのに、今は他人みたいだった。
「どこかで時間、つくれないかな。日にちはいつでもいいよ。合わせる」
「……わかりました」
わたしの態度に、彼も何か思うところがあったのだろう。三日後、急で申し訳ないですけれど、今日の夕方からなら時間が取れますという連絡があった。本当に急だったから、無理やりにでも空けてくれたんだろう。わたしは午後の休みを取り、彼との待ち合わせに向かった。
*
夕方、わたしはホテルのラウンジにいた。待ち合わせ場所にここを指定したのは彼で、わたしはクローゼットからまだ数回しか着ていないブラウスとスカートを引っ張り出すはめになった。
指定された時間を三十分ほど過ぎてから彼はあらわれた。珍しいことに、彼はスーツを着ていた。そうあらたまった格好で来られるとは思ってなかったので、わたしはいささか面食らった。もしかして探偵の仕事の都合だろうか。グレーのスーツは、おどろくほど彼によく馴染んでいた。
向かいの席に座るなり、彼は「すみません。すぐに出ないといけなくて……」と前置きした。またか、と思ったけれど、どこかでわかっていたような気もした。
彼が注文したコーヒーが運ばれてくるまで、わたしたちはふたりとも黙ったままだった。わたしはもう半分ほど飲んでいて、コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
わたしは深く息を吸いこんだ。声が震えてしまわないか不安だったけれど、自分が思っていたよりもはっきりと言葉にすることができた。
「別れてください」
彼は動じなかった。こうなることは予想していたんだろう。わたしだって、逆の立場だったらさすがにわかる。彼が何もいわないのが気に食わなくて、苛立ちからつい感情的になってしまった。
「物分かりのいい彼女のふりしてたけどもう嫌なの。約束守らないし、とつぜん怪我してくるし、ずっと探偵と喫茶店の仕事しかしてないのにいい部屋住んでるし……」
「……それは、」
「わかってる。わかってるよ。友達から借りてるんでしょ。でも探偵の仕事って何? そんなに稼げるの? 独立してないのに、頻繁に依頼が来るもの?」
彼は答えなかった。俯くと、それまで我慢していた涙がぼろぼろと零れて、スカートに染みをつくった。
「どうしてわたしだったの」
男の前で泣くなんて、なんてみっともないんだろう。平日のラウンジは空いていたけれど、それでも、異変に気づいた周囲の人々が、ちらちらとこちらを見ているのがわかった。
「わたし、普通の女だよ。その気がないなら別れて……」
膝のうえに置いた手をぎゅっと握ると、てのひらに食いこんだ爪の痛みが、これが現実であることを告げていた。まるで安っぽいドラマのワンシーンみたいだ。早くこの哀れな女を振ってくれと祈りながら、彼がここから立ち去るのを待った。でも、彼はそうしない。
向かいの席から、バイブレーションの音が聞こえてくる。きっと電話だろう。相手があきらめるのを待っていたようだが、いつまでたっても音は鳴り止まない。
「…………」
「…………」
「出ていいよ」
「……すみません」
わたしが鼻をすすると、彼は席をはずして電話に出た。そのあいだにわたしはハンカチを取り出して涙をぬぐった。視線で彼を追うと、なにを話しているのかはわからなかったけれど、荒っぽい口調らしいことはなんとなく伝わってきた。怒っているのは珍しいな、と思って様子を窺っているうちに通話を終えたようで、足早にこちらへと戻ってくる。
「……失礼しました」
「時間ないんでしょ。行ってよ」
「聞いてください」
いつかみたいな、必死めいた声で名前を呼ばれると、胸のあたりが苦しくなる。いつも余裕たっぷりなくせに、こういう時ばっかりそんな声でわたしの名前を呼ぶのはずるい。
「……僕は、あなたに言っていないことがあります」
ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて、わたしは目を伏せたまま彼の話を聞いた。
「あなたが無理してるの、知ってました。……僕のためにいろいろ我慢してくれてたんですよね。それで嫌な思いもたくさんさせたと思います。不審に思うこともあったのに、あなたはなにも聞かずにいてくれた。僕はずっとそれに甘えてました」
わたしはそこで初めて、自覚あったんだ、と感心した。泣いたおかげで頭はすっきりとしていて、冷静に物事を考えられるようになっていた。こういう時、女でよかったと思う。
「だから、待っててくれませんか」
「……は?」
思わず顔を上げる。目の前に泣き腫らした顔の女がいるというのに、彼は引いたりしなかった。いや、それよりも、彼の考えていることがわからない。
「わたしの話聞いてた?」
「はい」
「別れようって言ったんだよ」
「僕はそのつもりはありません」
わたしは言葉をうしなった。そんなわたしにはかまわずに、彼はスーツのポケットからなにか小さいものを取り出してテーブルのうえに置いた。ことりという音とともに置かれたそれは、鈍く光を放っている。
「何これ」
「鍵です。僕の家の鍵」
銀色の、どこにでもありそうな、なんの変哲もない鍵だった。キーホルダーのひとつもついていやしない。
「あなたが持っててください」
彼は一度テーブルのうえに置いた鍵を手にとり、無理やりわたしに持たせようとした。嫌だと一言いえばいいのに、どうしてもそれができない。折れるのはいつも私のほうだった。
「いつまで?」
振られそこねてしまったわたしは、あきらめてその鍵を受け取った。その瞬間、軽くゆびさき同士がふれる。手は相変わらずかさついていて、彼は満足そうに目をほそめてわたしに告げる。
「僕が帰ってくるまで」
*
彼の部屋の鍵を預かってから一年が経ち、二年が経った。わたしはもうすぐ三十四歳になろうとしていた。
彼とは、あれからすぐに連絡がつかなくなった。電話に出ないのではない。電話自体が、繋がらなくなったのだ。おかけになった電話番号は現在使われておりません――そんなアナウンスを、わたしは何回も何回も聞いた。
自分でもばかみたいだと思ったけれど、それでも、彼を待ちつづけていた。何度も約束を破られたのに、わたしは、それまでにかわした彼との約束を思い出していた。コーヒーショップへ行く予定をたて、フレンチトーストをつくってくれるといったあの日々を、なかったことにはできなかった。
彼がいなくなってからしばらくして、わたしはポアロを訪れた。だいぶ足が遠のいていたので、梓さんはわたしを見ておどろいていたけれど、あたたかく迎えてくれた。お店にいたのは梓さんだけで、彼について訊ねると、最後にわたしと会った日のすこし前に辞めたのだという。――探偵として独立して事務所を開くことになったんです。安室さん、そういってましたよ。わたしにはそんなことは一言もいわなかったので、やっぱり、探偵の仕事は嘘だったのだ。
彼のいなくなったポアロで、わたしはあの日と同じようにパフェを頼んで食べた。暴力的な甘さは、現実を束の間忘れさせてくれた。
わたしはときどき、彼の怪我の手当てをした日のことを思い出した。何度かこの鍵をもってあのマンションに行こうかとも思ったけれど、結局行動にはうつさなかった。
いったい彼はどこへ行ってしまったんだろう。まるでこの世からすがたを消してしまったみたいに、彼の痕跡がなくなっていくような気がした。もしかしたらわたしは、長い夢を見ていたんじゃないだろうか。けれど、手元にあるこの鍵が、これが夢ではないことを教えてくれる。
わたしは彼と一緒にいったお店へ足を運び、コーヒー豆を買うのがすっかり習慣になっていた。行き先はまちまちで、だいたいはローテーションだ。彼がいつ帰ってきてもいいように、鍵はつねに持ち歩いていた。それはいつしか、わたしにとってお守りみたいなものになっていた。
その日もわたしは行きつけのコーヒーショップへ行き、いつもの豆を買うところだった。店員さんとはすっかり顔馴染みになったので、たまにサービスをしてくれるのが嬉しいところだ。
「ああ、そのひとなら……あ、来てますよ」
いつもの男性店員さんが、誰かと話している声が聞こえた。視線を上げると、ちょうど目が合う。
「ほら」
その店員さんの向こうに、よく知った顔を見つけた。わたしは声をあげることもできずに、その場に立ち尽くしていた。
彼が、そこにいる。前と変わらないすがたで、あのグレーのスーツを身に纏ったまま。
夢を見ているようだった。わたしはコートのポケットに手を入れて、そこにあるはずのものを探す。ゆびさきに鍵がふれて、それはたしかな重さを持っていた。
コーヒーショップを出たわたしは、彼の車に乗っていた。膝の上には、いつかと同じコーヒー豆がある。話したいことや聞きたいことは山ほどあったけれど、わたしの口からは平凡な質問しか出てこなかった。
「どこに行くの?」
「鍵、持ってますか」
「うん」
「じゃあ、僕の家へ」
彼はゆるやかにアクセルを踏み込んだ。わたしは隣に座ったまま、前を向く彼の横顔を見つめる。あの時もそうだったけれど、スーツを着ているのでなんだか別人みたいだ。
彼の家、といったけれど、向かったのはわたしが知っているあのマンションではなく、米花町にあるアパートだった。近くの駐車場に車を停めて五分ほど歩いたところにそのアパートはあって、二階の一番奥が彼の部屋らしい。預かっていた鍵を渡し、それを鍵穴に差し込むと、ドアはかんたんに開いた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
促されるようにして彼より先に部屋のなかへ入ると、どこか懐かしいにおいがした。それが畳のにおいだということは、部屋を見ているうちにわかった。
わたしの知らない彼の部屋。
二年。たった二年といわれたらそれまでだ。でも、とても長かった。彼と会ってからは三年が過ぎていた。
会ったらまずなにを言おう。怒ってやろうか。それとも、嬉しい気持ちのほうが強いだろうか。いろいろ考えたけれど、そのどれでもなかった。
わたしは泣きそうになって、部屋の真ん中で足を止めた。涙が零れないようにくちびるを噛んだけれど、泣くのを止められなかった。
このひとのことを、こんなに好きになっていたなんて。こんな感情があるなんて、知らなかった。
「おかえりなさい」
「ただいま。……待っててくれてありがとう」
力強く抱きしめられながらわたしはわんわん泣いた。思いっきり息をすいこむと、大好きなひとのにおいがした。
カーテンのすきまから差しこんだ太陽のひかりがまぶしくて、わたしはゆっくりと目を覚ました。見慣れない天井が視界にうつり、しばらくしてからここが彼の部屋だったことを思い出す。夢じゃなかったと安心したのも束の間、いっしょに眠ったはずの彼がいないことに気がついた。
とりあえず脱ぎ散らかした服を着て、それから彼を探すと、ベランダに人影が見えた。わずかに開いたガラス戸のあいだから、煙っぽい空気がはいってくる。近づいてゆくと、わたしに気づいた彼は気だるげに視線をよこした。
「ごめんなさい、煙入っちゃいました?」
「ううん……」
「おどろいた?」
煙草をすっていること。正直にうなずいたが、嫌じゃなかった。
「よくすうの?」
「たまに。……仕事が仕事だから、匂いが移ったらいけないので」
「そうなんだ……」
まだ頭がぼんやりする。彼がいる現実についていけなくて、置いてけぼりをくらったみたいだ。
手招きされて彼のそばに寄ると、煙のにおいがいっそう強くなった。わたしは喫煙の経験がなく、周りにすうような友達もいなかったので、物珍しさから彼のすっている様子をじっと見ていると、すいかけをとつぜん口に突っ込まれた。
「な、にするの」
運悪く煙をすいこんでしまったわたしは、しばらくのあいだげほげほとむせていた。ようやく咳も落ち着いて涙目になったわたしを、彼は表情の読めない目で見ていた。
「わたしのこと嫌いなの?」
「そうなれればよかったんですけどね」
返ってきた答えに、わたしは質問を重ねる。今まで聞けなかったぶん、今日は彼に聞いてばかりだ。
「……嫌いになれなかったの?」
「あきらめられれば楽だったんです。本当に……」
彼はこちらを見ずに、ベランダの向こうに広がる朝の街を眺めていた。その横顔があまりにもさみしそうだったので、わたしは叱る気にもなれずに、そのまま口をつぐんだ。
彼は身体ごとこちらに向き直り、わたしのほうを見た。一瞬、泣いてるかもしれない、と思ったけれど、涙のあとはどこにも見当たらなかった。
「朝食にしましょう。話はそのあとに」
部屋の中に戻ると彼は台所に立ち、慣れた手つきで朝食の用意をはじめた。なにか手伝うことはあるかと聞いたけれど、そこで待っててくださいといわれたので、わたしはすぐそばの椅子に座って邪魔にならないようにその様子を見守った。わざわざエプロンをしているところを見ると、朝から本格的なものを作ってくれるのかもしれない。
わたしの予想は当たり、三十分もしないうちに、テーブルにはたくさんの料理がならびはじめた。れんこんと茄子のはさみ揚げ、ごまときゅうりの和え物、大根のお味噌汁、ほうれん草のおひたし、鮭の味噌マヨネーズ焼き。瞬く間にテーブルのうえはお皿でいっぱいになった。
「こんなに作ったの?」
「癖で……」
「癖?」
中には作り置きのものもあったけれど、ほとんどがこの短時間で作られたものだ。きっと料理が得意なひとなんだろうと思ってはいたが、手際のよさはわたし以上だった。
わたしたちは今まで会えなかった空白を埋めるように、たっぷりと時間をかけて料理を味わった。彼の作った料理はどれもちょうどいい味付けで、わたしのからだにとてもよく馴染んだ。まるでずっと食べつづけてきたかのように。
「せっかくだし、それ、淹れますね」
朝食を食べ終えると、今度は昨日買ったばかりの豆でコーヒーを淹れる準備をはじめた。やかんを火にかけ、そのあいだに豆を挽く。いつかポアロで見た光景とかさなって、ずいぶん遠くまで来たような気がした。沸騰する直前で火を止め、じっくりと蒸らしてからお湯を注いでていねいに抽出する。
「それで、どこから話しましょうか」
なんでも話しますよ、とわたしの前にマグを置き、向かいに座った彼はにこにこと笑っている。もともと愛想はよかったけれど、まるでひとが変わったみたいだ。
「透くん、そんなキャラだったっけ」
「やだな。もとからこうですよ」
「……じゃあ、聞くけど、今まで何してたの?」
今まで、というのは、最後に会ったあの日から昨日までの二年間のことだ。どうしてあの店にわたしがいるとわかったのかも気になったけれど、彼は探偵だし、そのくらいのことは知っていそうだ。まさか、わたしと会えることを期待して通っていたわけではあるまい。
「一番答えにくい質問ですね」
「聞いてって言ったのそっちじゃん」
「そうですよね。……ちょっと待っててください」
彼は席を立つと、一度寝室へとすがたを消し、黒い手帳のようなものを持って戻ってきた。
「これを」
見てもいいのかと視線を上げると、彼は神妙な表情で頷いた。いったいここに何が書いてあるというのだろう。
おそるおそる両手で受け取り、そっと中を開いてみる。目に飛び込んできたのは彼の写真と、見慣れない文字列だった。
「……降谷……?」
「はい。僕の本名です」
「透くんじゃないってこと?」
「……そうです」
それから彼は、話せる範囲でですが、と前置きをして、いろいろなことを教えてくれた。自分は警察官で、とある事情で身分を明かせなかったこと。喫茶店でアルバイトをしていたのも探偵の仕事をしていたのも、仕事の一環だったということ。この二年は仕事の都合で連絡がとれなかったということ。わたしに鍵を預けたのは、きちんとお付き合いをする意思があったからだということ。
「すみません。このくらいしか話せることがなくて」
「ううん。……偽名ってわかったら、なんとなく仕事の内容は予想つくけど」
「…………」
ドラマや映画で観たことがある。にわかに信じられなかったけれど、きっと本当にそうなのだろう。彼が答えないのがなによりの証拠だ。そして、これをわたしに見せてくれたということは、いまの身分は保証されているはずだ。
「わたしが他のひとと付き合ってたらどうするつもりだったの?」
「相手の身辺調査をして、問題がなさそうならあきらめるつもりでした」
意外にもわたしは一途だったので、彼の帰りを待ち続けたのだけれど。我ながら健気だと思う。
「……どうしてわたしだったの?」
あの日と同じことを聞いた。聡い彼のことだ。きっと憶えているだろう。
「僕は結婚願望があったので、仕事が一区切りついたら、というのを夢見て、相手を探していました。ほら、よくあるでしょ。上司の娘とお見合いとか……あれ、本当にやるんですよ。信じられないでしょ。でも、僕は仕事が仕事だったので、身分を抹消されている間はそういう話もなくて……、怒られること言いますけど、誰でもよかったんです」
「誰でも……」
「でもあの雨の日、あなたがやってきたから、運命だと思ったんです」
彼の言葉を聞きながら、わたしはコーヒーの入ったマグに視線を落とした。今でも彼を好きな気持ちに嘘偽りはないけれど、自分が釣り合うとは思えない。
「……あなただったら、他にもっとお似合いのひとがいると思う。いいところのお嬢さんとか、上司の娘? とか、これからいくらでも出会いはあるんじゃないかな。わたしじゃなくても……」
「あなたじゃなきゃ意味がない」
強い口調でいわれ、わたしはぱっと顔を上げた。男と目が合う。わたしの知らないひと。秘密を教えてくれたひと。
「……わたし、普通の面倒くさい女だよ。連絡もらえなきゃ寂しいし、でも面倒な女って思われたくないから物分かりのいいふりして、ドタキャンされても平気な顔してた。だけど、本当はずっといやだった。結婚のこととか考えてたけど、そんな様子ないし……わたし、結婚願望なかったはずだけど、周り見てたらやっぱり焦るし、ウエディングドレス着たいし、指輪だって憧れるもん。だからいやなの。普通の女になるのがいやだったから、ずっと見ないふりしてたの」
「普通じゃ駄目なんですか」
「だって……透くん、普通じゃないんだもん。普通の男のひとみたいだけど、違う。だからわたしも、普通になりたくなかった」
「僕だって普通の男ですよ。……普通の恋人がほしかったんです」
そういって彼はぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。
「あと、言い忘れてたんですけど、僕、和食のほうが好きなんです」
今日の朝食を見れば、それは明らかだった。だけど、わたしの知るかぎり、彼は洋食のほうを好んでいたように思う。行きつけのコーヒーショップやリストランテがあったくらいだし、わたしの部屋に泊まった時に作ってくれたのも、記憶にあるのは洋食ばかりだ。
「なんでいつも洋食だったの?」
「女性って、洋食のほうが好きじゃありません?」
「偏見じゃない? 朝ごはんだったら、和食のほうがいいな」
「じゃあ、僕が毎朝お味噌汁を作ります」
彼はどこからかベルベットのケースを取り出し、わたしに向けてその蓋を開けた。中では銀色の指輪が、朝のひかりを受けてまばゆく光っている。いったいいつの間に用意したんだろう。いつから、渡そうと思っていたんだろう。
あの日預かった銀色は、左手の薬指で輝く指輪になった。わたしは彼の部屋にいて、手を伸ばせば届く距離に彼がいる。それでじゅうぶんだった。
「たぶん、あなたが思ってる以上に、あなたに話せないことがたくさんある。これからも、あなたの知らないところで僕は仕事をする。……それでも、もし許されるなら、」
――僕と結婚してほしい。
彼はわたしの手をとって口づけた。こんなの、普通の男はしない。いったいどの口が普通などというのだ。
「普通になりたいんでしょ。じゃあ、わたしが普通にしてあげる」
精一杯の笑みで答えると、彼はテーブルから身を乗り出してぎゅうぎゅうとわたしに抱きついた。わたしも同じだけの力で彼を抱きしめかえす。
わたしたちは普通の男と女で、これが、運命だったので。
2018.09.17 -> 2020.11.22
Bad Night
深夜の霞ヶ関をあとにした降谷は、白い愛車を走らせて自宅へと向かっていた。かれこれ二週間ほどオフィスに缶詰めで、いよいよ限界だった。このまま恋人の待つ部屋に帰り、翌日(といってももう今日である)は久しぶりのオフを満喫――ということはなく、一時的に戻るためだけに睡眠時間を削って庁舎を出てきた。仮眠室で眠ったほうが往復の移動時間のぶんも寝られるのだけれど、それを捨ててでも家に帰りたかった。
外から見たマンションの一室は暗く、きっと寝ているだろうなという思惑どおり、帰ってきた部屋はしんと静まりかえっていた。そっと寝室のドアを開けると、ベッドで眠っている彼女の姿がみえる。廊下の明かりが細く差している部屋にからだを滑り込ませ、音もなく後ろ手に扉を閉めた。
言いつけを守って設定したらしいエアコンの温度を確認し、彼女の肌が冷えすぎていないか、調べるように皮膚をなぞる。すこし冷たいような気もするが、毛布にくるまって気持ちよさそうに眠っているところを見ると、おそらくちょうどいいのだろう。
だからといって。
「なんで俺の部屋で寝てるかなあ……」
仕事が不規則でいつ帰れるかわからないからと、寝室はそれぞれ分けていた。もちろん、お互いが家にいる日はどちらかのベッドで一緒に寝ることもあったけれど、しばらく仕事が忙しくなると彼女にはつい先日伝えたばかりで、今日だって時間をつくって無理やり帰ってきた。それも着替えを取りにきただけで、ついでに顔を見られたら、と思っていたのだけれど、戻りたくないという気持ちがふつふつと湧き上がる。
彼女の部屋にだってエアコンはある。それなのに、わざわざ自分の部屋で寝るなんて。寂しいから、以外の理由があるだろうか?
「……、あー……」
夜明けまでにはここを出なければならない。シャワーを浴びて軽く眠って、痕跡を残さずに立ち去るつもりだったのに。なにより、こんなくたびれた格好を、彼女に見せるわけにはいかなかった。
それでも。
傍にいたい、触れたいという欲求が抑えられなかった。
夜の暗さにも目はすぐ慣れて、彼女の寝姿をよく見ることができた。自分の寝室ながら、こうも無防備でいられると心配になってくる。自分以外の男がこの姿を見ることは万が一にもないだろうが、もっと警戒心を持ってくれ、と。
帰ってくることを期待していたのか、健気にもベッドの上に自分ともうひとりぶんのスペースを空けて、彼女は気持ちよさそうに寝入っていた。ドアに背を向けた格好ではあるが、傍に寄って覗きこむと安心しきった寝顔が目に入る。このまま朝までとなりで眠ることができたら、どんなにかいいだろう。
「……せめて、起きないでくれよ」
今だってぎりぎりなのだ。彼女の目が自分を映したら、きっと後に引けなくなる。 後ろめたさに、その夜はじめて帰ってきたことを後悔した。
男はスーツもろくに脱がず、帰ってきたそのままの格好でベッドに乗り上げると、彼女のすぐとなりにからだを横たえた。すんと鼻を近づけると、前に自分がプレゼントしたボディソープのにおいがする。みずみずしい花の香りはうっすらと甘く、彼女はそれをいたく気に入り、なくなりそうになるたびに同じものを買い足していた。衣服の下に隠れた肌から香るそれは彼女のにおいと混じり、男の欲に火をつけてゆく。
「ん……」
男の体重を受けてベッドが軋む。起きてしまうだろうかとしばらく様子を観察していたが、彼女はわずかに身じろいだだけで、ふたたび深い寝息が聞こえてきた。単に寝つきがいいのか、それともよほどこのベッドが気に入っているのか。眠ったままでいてくれるのは好都合だったが、こんなに近くにいるのに目を覚ましてくれないのを寂しく思った。自分勝手にも程がある。だけど、期待せずにはいられない。起きるな。頼む。起きないでくれ。……起きて。俺を見て。
寝間着代わりのTシャツの裾から手を入れると、すべすべとした肌の感触があり、花の香がいっそう濃くなった気がした。エアコンはついているが、寝ているあいだに汗をかいたようだ。力なく横たわる彼女を自分のほうへと抱きよせ、薄い腹に腕を回したまま首すじに顔を埋め深く息をすいこんだ。
このまま大人しく眠ってしまえたらよかったのだけれど、よくない感情がむくむくと頭をもたげた。寝ている彼女には何もしない。その代わり、俺がひとりで自分を慰めることは許してほしい。ここのところとくに忙しく、まともに眠れていないどころかそういう処理もできていなかった。
腹に沿わせていたてのひらが肌をすべり、冷えた乳房をそのなかに収めた。けっして豊かとはいえないが、小さいわけでもない。男の手が大きすぎるのだ。やわやわと感触を楽しみながら、ショートパンツの裾からすらりと伸びた太腿に腰を押しつける。それだけの刺激では物足りないはずなのに、男の性器はとっくに反応を示していた。
「はぁ……っ」
堪えきれなかった息が漏れ、彼女の首のうしろを湿らせる。スラックスの前をくつろげて取り出したペニスに手を添えると、欲望のまま上下に動かした。こんなのはただの自己満足で、ひとりよがりの性欲処理だ。すぐ目の前に恋人がいるというのに、ひとり寂しく自らを慰めている。
「……はあ、っう、……」
どろりと吐き出した精液を手で受け止めながら、男が荒く息をついた。それからほどなくして、一気に虚しさが押し寄せてくる。こんな真夜中に恋人のとなりで、いったい自分は何をやっているんだ。
のろのろとからだを起こし、傍にあったティッシュ箱を掴んで手早く後始末をする。ぞんざいに身なりを整えてからベッドに座りなおし、あらためて恋人の寝顔を見下ろした。こんなことをしても目を覚まさない彼女のことだ。朝まで起きないだろうとたかをくくっていたが、それが間違いだった。久々の帰宅で、無防備に眠る恋人を見て油断しきっていた。……俺らしくもない。
「んん……零さん……?」
彼女はもぞもぞとからだを動かし、眠たそうにこちらを仰ぎ見た。とはいっても部屋の電気はつけていないので、男の気配くらいしかわからないだろう。それでも健気な恋人は、となりにいるのが自分だと信じて疑わない。――今が夜でよかった。こんなみっともない姿を彼女に見られなくてすむ。
「……ごめん。起こしました?」
「ううん……」
顔が見たくてサイドテーブルの明かりをつけると、彼女は眩しそうにぎゅっと目をつむった。悪いことをしたな、と思ったけれど、実際はそこまで悪いとも思っていない。目を覚ましてくれたことが嬉しくて、疲れなんて吹っ飛んでしまう。
「んー……、おかえりなさい……」
「ただいま」
自分の口から出た声の甘さに、本人が一番おどろいていた。つい数時間前まで男だらけの職場でくさくさしていた心が、恋人の待つ家に帰ったとたんこれだ。己のわかりやすさに内心苦笑しながら、つとめて優しく語りかける。……今はまだ、甘い顔しか彼女に見せていないから。
「まだ寝てていいですよ」
「零さんは……?」
「着替えを取りにきたんです。朝には戻らないと」
まさか俺のベッドで眠っているとは思わなかったけれど、可愛い恋人の姿が見れたから僥倖だ。スーツの上着を脱ぎながら、まだ夢の中にいる彼女に答えてやる。
だからもう眠って、という願いを込めて頭を撫でると、彼女は何を勘違いしたのか、甘えるようにこちらへと擦り寄ってくる。寝ぼけているのだろうか。
「こら、何してるんだ」
からだを起こした彼女がぎゅうっと抱きついてきたかと思うと、小さな手がワイシャツ越しに男の胸のあたりを撫で、それから下腹部に辿り着いた。そのままスラックスごとペニスを揉み込んできたので、さすがにぎょっとして身を引く。シャワーを浴びたのは二十四時間以上も前だ。こんなに密着していたら汗臭いに違いない。それどころか、汗以外のにおいだってするはずだ。
「ちょ、っと、待ってください」
「したくないの……?」
「したい。したいですけど」
普段はそれほど積極的ではない彼女に圧されて、柄にもなくどきどきする。というか、こんなアプローチはされたことがなかった。俺をだれかと勘違いしているわけでもなさそうだ(それはない。ありえない)。……都合のいい夢でも見ているのだろうか。
彼女も同じ思いだったら? 自分のいない夜を寂しく思って、からだを重ねることを期待していたら? そう考えればすべて納得がいく。
彼女はいま、いったいどんな思いで自分に触れているのだろう。今すぐにでも引き倒してやりたい衝動を抑えながら、ふと、次はどうするつもりなのだろうという好奇心に駆られ、しばらく好きにさせてみることにした。反応の芳しくない降谷を、乗り気ではないとでも思ったのだろう。下着からペニスを取り出すと、さっき男がひとりでしていたときよりもたどたどしい手つきで擦りはじめた。……これに触ったことなんて、そう多くもないはずだ。力加減のわからない彼女は、こちらがじれったくなるような触れ方をしてくる。まるでそういうプレイみたいだ。
「……あの、もうちょっと、強く」
「えっ。こ、こう……?」
「ん……そう、上手……」
ときどきこちらの様子を窺いながら、さっきよりも意図的に力を加えて握る。あまりにも素直で、可愛らしくてたまらない。そんなんじゃいつか悪い男に騙されるぞと思ったところで、まさに自分がそうなのだと気づく。何も知らない彼女に、男を覚えさせたのは他でもない降谷自身だ。
射精したばかりだというのに、男のペニスはすぐに硬さを取り戻した。だらだらと流れた先走りが彼女の手を汚していく。さっきよりもひどく興奮していた。にちゃ、ぬちゅ、と濡れた音がして、しだいに息が荒くなってくる。……どちらの? どちらともだ。
男の反応に気をよくした彼女はベッドのうえで腰を折ると、重力に従ってさらりと流れる髪を耳にかけた。彼が制止するのも聞かずに、赤黒く腫れたペニスを口の中へ迎え入れる。
「っあ、おい、シャワー浴びてないから……っく、」
熱い粘膜に包まれた瞬間射精しそうになるのを、間一髪でぐっと堪えた。こんなことは、今まで一度だってさせたことがないのに。いったいどこで覚えてきたんだ。口を離した彼女はちゅ、と音を立てながら先端に吸い付き、ペニスに沿ってくちびるを横に滑らせた。しばらくぬるぬると往復させてから、今度はいっそう奥まで咥える。ときおり喉のほうから苦しそうな声が聞こえてきて、それでも彼女は一生懸命に奉仕をつづけた。
「ん……、もういいですよ」
男の言葉を聞いた彼女は大人しくくちびるを離した。はあ、と色っぽく息をついて、口のまわりを汚したままぼんやりと降谷を見上げる。次は彼女が尽くされる番だった。
ショートパンツに手をかけると、彼女は脱がしやすいように腰を浮かせてくれた。下着ごと下ろし、割れ目に直に触れる。ぬるぬるとした愛液が降谷の指を濡らした。そのまま指を沈めてゆき、中があたたかく男の一部を受け入れる。早くここに挿れたい。奥まで突き入れて、逃がさないで、一番深いところでイきたい。どろりとした欲望が男の中で渦巻き、従順な彼女に次の命令を下す。
「脚、自分で広げてみせて」
「ふぁ、はい……」
恥ずかしいことが大好きな彼女は、顔を真っ赤にしながら膝を立て、じりじりと脚をひらいていった。橙色のテーブルランプに照らされ、彼女の大事なところがてらてらと光っている。脚のあいだから見え隠れするそこをじっと眺めていると、震える手がだらだらと蜜を溢している雌を、くぱ、と開いた。
「ね、おねが、早く……」
あけすけに誘われ、男が息をのむ。自分がどんなふうに見えているかなんて、きっと彼女は気にしていないのだろう。それが彼の目にどう映っているか、どんなにいやらしい格好をしているかなんて。これで彼が釣られてくれるなら本望だった。男は目の前の欲に抗えない。
くちゅ、といやらしい音をたてて、ゴムを被せたペニスの先端が入り口に押しつけられる。ちゅ、ちゅ、と下腹部どうしが音をたててキスするのを、お互いに熱っぽく見つめていた。浅いところに軽く押しこんでは引き、くちくちと白くねばつくまでしつこく攻め立てると、堪らなくなった彼女はとうとう泣き出してしまった。さすがにかわいそうになってきたのと、彼のほうももう我慢がきかなくなり、ぴたりと隙間なくペニスをくっつけた。
「あ、あ、あ……!」
準備の整った膣にずぷずぷとつきこむと、耐えきれない快感から彼女はしばらく声をあげ続けていた。ぴりぴりと甘い痺れがからだじゅうを駆け巡り、それは彼にも伝わってくる。ぴくん、と全身を震わせている彼女の奥を、たったひと突きで追いつめる。
「ひゃあん!」
薄いゴム越しでも、彼女の中がひくひくと蠢いているのがよくわかった。ねっとりとペニスを包み込んで、ザーメンを出させようとしゃぶりついている。間違っても浮気なんかしていないだろうから、ひさしぶりのセックスは、泣くほどきもちいいはずだ。現に膣はきつく男にしがみついてくる。きっと本当に誰にも抱かれていない。……自分以外の誰にも。自らを突き刺すペニスを食い締めて、彼女はふうふうと熱い息を吐き出した。
「……声、出したほうがきもちいいですよ」
「っくぅ、んん」
きつく目をつむって、ふるふると首を振る。可愛らしいけれど、かえって逆効果だ。もっと虐めたくなる。
「我慢しようとすると、からだに力が入って……っ、ね、ほら。きゅって締めるから……僕は、きもちいいですけど」
「~~っ!」
彼女はうっすらと目を開いて、恨めしそうに男を見上げた。濡れたひとみで見つめられると、それだけでぞくぞくする。視線を合わせながら奥を擦るたびに、だらしなく舌を突き出して背を撓らせた。
「ひ、っあ、あ、あん!」
ゆっさゆっさと揺さぶられながら、彼女は隠しもせずに甘い声で鳴いた。普段はもっと抑えているのに、我慢しないとこうなのか。声を出したほうがきもちいいと知っている彼女は、いつも声を押し殺していた。……快楽に身をゆだねるのが怖いのだと。自分がつくりかえられてしまうようで、それが恐ろしいのだと言っていた。
「あー、きもちいい……」
汗ではりついた前髪をかきあげて、好き勝手される彼女を見下ろす。中はとっくに男のかたちをおぼえて、もうすっかり彼のものになっている。女性を抱くのはほんとうに久しぶりだった。最後に抱いたのも、今抱いているのも、どちらも同じ女の子だ。仕事柄、そう頻繁に恋人と会えるわけでもなく、そういう店に行くことも叶わず、一人で処理することがほとんどだった。事務的で、何の色気もない。だけど、好きな女の中に包まれるというのは、やはり気分がいい。受けいれられ、許された気がする。ちょっと自分本位で動いてみると、彼女は下で力なく揺さぶられていた。思ってはいけないのだろうが、道具のように扱われているのを見て、興奮した。そうしているのは自分なのだけれど、……これはちょっと。うん、よくないな。
「ふ、っう、れ、れーさ、れぇ、っ」
「かーわいい……」
甘えたな彼女が、ベッドの中でだけ彼のことをれい、と、舌ったらずな声で呼ぶのがいっとう好きだ。そうしろと教えて、素直に呼ぶようになるまでにはそれなりに時間がかかった。いまでは名前を口にした瞬間にとろりと瞳が蕩けるので、そうなるように仕向けた甲斐がある。きもちいいことを思い出して、呼ぶだけで期待しているのだ。その証拠に、男の名前を呼ぶたびに、咥えたペニスを器用にぎゅっと締めつける。……早くイきたいと、彼女の全身が訴えていた。
びしょびしょに濡れた陰裂に容赦なく下生えを押しつける。ぷちゅ、ぱちゅん、と空気を含んだ音が、淫らな寝室に響いている。
「あぅ、あっ、んっ」
「っうぁ、でる……っ」
「あ、あ……」
ぎゅうっとシーツを握りしめる彼女の手に力が入り、やがてゆっくりと弛緩する。うねる膣壁に誘われるように、男もゴムの中へびゅくりと精子を吐き出した。脈打つペニスを味わうようにして、彼女のそこはきゅ、きゅ、と締めつけてくる。隔てるものはなく、柔らかな襞が性器に絡みつくのを想像した。
「ぁ、なか、びくびくってイッたの、うれし……」
「……それ、ほんとにどこで覚えてきたの」
教えた記憶はないんだけどなあ。ずるりと引き抜くと、あん、と甘えた声で鳴いた。絶頂の余韻に震えるからだをひっくりかえして、もう一回、と――一度出したにもかかわらず多く濃く注がれたゴムを外して――腰を押しつけた先、彼女はくたくたになって、ベッドにうつむけた。ぺらぺらのTシャツの裾が捲れて、薄い横腹がちらりと見える。
「……え」
おい、嘘だろ、と思わず声に出して、降谷は行き場のなくなった手を彷徨わせた。彼女は疲れ果ててしまったのか、濡れた下腹部もそのままにことりと寝入ってしまった。すやすやと眠る恋人を見下ろしながら、男が苦々しく舌打ちする。……さっきの、合意だよな? さすがに寝ているところを犯す趣味はないので、今度こそシャワーを浴びようとベッドから降りた。おかげで頭はすっきりしたが、眠れそうにない。あー、クソ。ナマでしたい。
2018.09.17 -> 2020.11.22
SHOW ME HEAVEN
月半ばの金曜日、会社の飲み会を適当に切り上げたわたしは、ほとんどくせみたいに取り出したスマートフォンのメッセージアプリを起動した。電話をかけようか一瞬迷い、指をスライドさせて文字を打ち込む。飲み会があることは前もって恋人に伝えてあったので、それが終わったので今から帰る、と。今日はわたしのほうが帰りが遅いので、彼が自宅の最寄り駅まで迎えにきてくれることになっていた。メッセージはすぐに既読になり、了解、気をつけて、と短い返信がかえってきたのを確認すると、スマートフォンを鞄にしまって駅へと向かった。
繁華街ということもあり、金曜の夜は人通りが多い。ヒールの音を響かせながら駅までの道を歩いていると、先輩、と後ろから声をかけられた。振り向くと、今日の飲み会で隣の席になった後輩の男の子が立っていた。わたしと同じように、二次会には行かずに抜けてきたらしい。
「お疲れさまです。先輩、電車通勤でしたっけ」
「うん。あんまり遅くならないうちに帰ろうと思って。どうしたの?」
「僕、車なんで送りましょうか?」
そういえば、自分は下戸だからとお酒をことわり、ソフトドリンクばかり飲んでいたことを思い出す。最近は無理やり飲ませるようなことも少なくなって、それはうちの会社も例外ではなかった。それに、会社には車で通勤しているのだと、つい数時間前にそんな話をしたような気がする。お酒を飲めないのが本当かどうかはわからないけれど、車で来ているのならアルコールは飲まないだろう。
ほんの一瞬、どうしようかな、と考えた。会社の後輩だし、いい子だし、何も起こらないとは思う。でも、男性だ。この時のわたしは、うまくことわる理由を見つけられなかった。お酒を飲んだあとで、正しい判断ができなかった。金曜夜の混雑した電車に乗るより、車のほうが魅力的に思えたのも事実だった。
「家、たしか同じ方向でしたよね。送りますよ」
「……じゃあ、駅までお願いしてもいいかな」
「もちろん」
この時間の一般道は空いていて、車はスムーズに街中を走ってゆく。はじめのうちはぎこちなかったけれど、しばらくすると緊張もほどけた。とりとめのない話をし、ときおり笑いあいながら、車はあっという間にわたしの家の最寄り駅についた。
「本当にいいんですか? 家まで送りますけど……」
「あ、えっと、友達が迎えにきてくれることになってるから、ここで平気だよ」
「じゃあ、いっしょに待ちますよ。さすがに夜にひとりにするのは不安なので」
「大丈夫だよ。駅、明るいし、すぐ来ると思うし……」
彼は本当にいい人だったので、わたしを心配して、迎えがくるまでここにいるという。申し出はたいへんありがたいのだけれど、彼に見られるのも、彼を見られるのも面倒だった。言い訳を考えているうちに、やがて低いエンジン音が聞こえ、白いスポーツカーが視界に入る。運転席の彼も気づいたようで、音の正体を探すように視線を上げた。
「送ってくれてありがとう。また来週ね、お疲れさま!」
「あ、え? お疲れさまです……?」
慌てて車を降りようとするがもう遅い。……そもそも、あの人が気づかないはずがないのだ。
わたしが助手席のドアを閉めるよりも早く、すぐ横に車を停めた彼は、運転席から降りると芝居がかった仕草でわたしと後輩とを見比べ、にっこりと笑顔を浮かべた。グレーのスーツ。お仕事帰りの「降谷さん」だ。ドアを閉めるタイミングを失ったわたしは、引きつった顔でふたりのあいだに立つ。
「こんばんは」
「……あの、どちら様ですか?」
「いつも彼女がお世話になってます。安室と申します」
「か、彼、会社の後輩なの」
名前を伝えて紹介すると、「もしかして、ここまで送ってくださったんですか? お手数をおかけしました」とわざとらしくお辞儀をした。わたしはもう気が気じゃなくて、どちらのほうも見ることができない。
「飲み会だって聞いてたので迎えにきたんですが、どうもありがとうございました」
「はあ……」
「会社でも、またよろしくお願いしますね」
「いえ……じゃあ、僕はこれで」
ドアは、私の横にいた彼が閉めてくれた。窓ガラス越しに軽く頭を下げた後輩に手を振り、車が走り去ってゆくのを見送る。赤いテールランプが見えなくなるまで、ふたりとも黙ったままその場に留まっていた。こわくて横を向けない。振っていた腕を下ろすともう片方の手でぎゅっと抱きしめ、彼が口を開くのを待った。永遠にも似た長い時間のあと、はあ、というため息とともに、彼はようやく言葉を発した。
「……どういうつもりなんだ」
「飲み会のあと、送ってくれるっていうから……彼、お酒が飲めなくて、だから」
「何もされてないだろうな?」
「他にも人いたし、ほんとに何もないから!」
わたしが車に乗っても、彼は相変わらず不機嫌なままだ。何かあったのではないかと疑っているのではない。何もないと言っても、本当にそうだったとしても、恋人が異性とふたりきりで車に乗っていたら、彼でなくても嫌な気分になるだろう。悪いのは完全にわたしなので、あまり彼を刺激しないよう大人しくしていることにした。彼もわたしも、家に着くまでのあいだ、一言も話さなかった。
マンションの地下駐車場に車を停めても、わたしたちはその場から動かなかった。まだ怒っているのだろうか。エンジンを切った車内は静かで、ちらりと横目で見ると、彼はふてくされた様子でシートに凭れかかり、窓の外に視線をやっていた。
お仕事モードの彼にはあまり会ったことがない。スーツ姿はいつ見ても新鮮で、いまだにときめいてしまう。
彼も仕事で疲れているはずなのに、それでもわたしを迎えにきてくれた。なのに恋人が他の男といっしょにいたら、怒りたくなる気持ちもわかる。
「あの、零さん」
「…………」
「……ごめんなさい。電車に乗るよりいいかなって思って、あんまり考えずに乗せてもらったの。でも、送ってもらっただけで、本当に何も……」
「向こうはどう思ってるかわからないだろ。嫌いなやつならそもそも車に乗せない」
「う……」
彼の言うとおりだった。だんだん情けなくなってきて、涙が出そうになる。せっかくの金曜日でいい気分だったのに、自分のせいで台無しだ。明日の休みもふたりで合わせたけれど、今夜は別々に眠ることになりそうだ。
「なあ、」
名前を呼ばれて顔を上げると、彼はじっとこちらを見ていた。それから、ちょんと自分の頬を指差す。お詫びにキスしろということだろうか。シートベルトは駐車場に入った時に外していたので、わたしは身を乗り出して、彼の頬――ではなく、唇にキスをした。
「んっ……」
唇にされたことにおどろいていたが、動揺はなかった。誘うように唇を舐めると、わずかにひらいた口のなかに彼の舌がはいってくる。いつもは好き勝手されたくて受け身でいるけれど、彼がしてくれるのを思い出しながら、今日は自分から舌を絡ませた。ぬろぬろと動く舌がきもちよくて、夢中になってキスを続ける。ずっとこうしていたい。車内にちゅぷ、くちゅ、という音が響いて、いやらしい気持ちになってくる。絶対今日セックスしたい。できなかったら欲求不満で死ぬかもしれない。
きもちよさよりも苦しさが勝って、名残惜しかったけれど口を離した。はあ、はあ、と必死に酸素を吸いこんでいるわたしを見て、いっさいの呼吸を乱していない彼が吐息だけで笑った。
「ふ。へたくそ」
「……どうせわたしは零さんみたいにキス上手くないですよ」
「上達したよ。前はもっと息が続かなかっただろ」
キスのひとつもまともにできなかったわたしに、やりかたを教えたのは彼だ。息、止めないで。鼻で呼吸して。……そう、上手、と、根気強くからだにおぼえさせた。おかげでキスは大好きになったけれど、ぜんぶ見透かされているような気がする。わたしがどのくらい彼のことを好きか、どんなふうに抱いてほしいのか。
「おいで」
彼の言葉は魔法みたいだ。優しい命令。有無を言わせない態度に、従うのが当然という気にさせられる。わたしはどきどきしながら彼の言うとおりにしようとして――これからしようとしていることに気づいて、動きを止めた。
「や……やだ、ベッドがいい」
「この時間なら誰も来ない」
わたしが何を言っても、彼は聞く耳を持たない。こんな場所で、しかも車でなんて。……想像しただけで、ぞくりと背筋が粟立った。からだじゅうが熱くなって、彼に抱かれる準備をはじめてしまう。シフトレバーをまたいでのろのろと運転席のほうへ移動すると、想像していたよりもずっと窮屈だった。
「れ、零さ、これ、やだあ……」
「なに、他の男の車に乗っておいて俺には乗れないのか」
「お、親父臭い……」
この車は車高が低く、シートとハンドルの距離も近い。彼の上に乗ったもののあまり体重を預けたくなくて、両手を肩に置いてバランスをとるのに必死だった。
「もっとこっちに来ないと」
頭をぶつけると言いたいのだろう。素直に身を屈めると腰が密着した。ずるずるとスカートが捲れて、太ももがあらわになる。胸を押しつけているような体勢になり、まるで痴女だ。こんなの、ベッドの上でだってしたことがない。わたしはいつだって見上げるばかりだった。俯いても逃げ場はなく、わたしが恥ずかしがっているのを楽しんでいるようにしか思えない。居心地が悪くて腰を揺らすと、下にいる彼がびくっと跳ねた。
「っうぁ」
「あっ……ご、ごめんなさい」
「なんだ、乗り気じゃないか」
「ちがう……!」
どうやら彼の下半身を刺激してしまったらしい。そんな意図はこれっぽっちもなかったのだが、お尻の下では彼の性器が兆しをみせ、硬くなっていくのを感じた。服は着ているものの、こんなの、入ってないだけで、ほとんどセックスしてるみたいだ。
「はあっ……」
じわじわと変な気持ちになってきて、勝手に息が上がる。こんなに密着しているのに何もないのがかえってもどかしかった。潰れている胸が苦しくてからだを動かすと、いいところに彼の勃起したペニスが当たった。
「っひぁ!」
「ン、……ここ?」
「あっ、あぁっ」
座ったまま、彼は器用に腰を動かした。そのたびに服が擦れてきもちいい。彼が動きを止めても、わたしは刺激を追いかけて自分で腰を振っていた。じわ、とストッキング越しに濡れる感覚があって、漏らしたのではないかと錯覚した。
「腰上げて。……そう」
ベルトを外してスラックスの前をくつろげると、膨らんだ男性器が下着を押し上げているのが見てとれた。布地の色を濃く変えているのに気づき、じゅわりと膣が潤む。きっとわたしも、同じようになっているはずだ。
「スカート、自分で持ってて」
「うぅ……」
言われたとおり裾を持ち上げると、彼は下着ごとストッキングを脱がせた。片足だけ抜いてから、ふたたび上に跨るよう促される。……スカートの下がスースーして心許ない。お尻に当たる布の感触も、太ももを伝う体液の正体も、こんなのは初めてだった。
下着から取り出した男性器を、ぐっしょりと濡れた割れ目に擦りつけられる。なかには入れずに、先端でぬるぬると陰唇をなぞられた。あとすこしで入りそう、というところで腰を引くので、切なさに膣がきゅんと疼いた。
「ぁ、れーさ、ね、早く……」
「これだけ柔らかかったら、慣らさなくても大丈夫そうだな」
「あ、あッ――」
がっしりとお尻を掴んで、熱い粘膜に切っ先を宛がう。一気に腰を引き降ろされ、ぬるんとペニスが抵抗なく入ってくる。ひと息に最奥まで突き立てられ、苦しいのとみたされた感覚とでぐらりと眩暈がした。
「ひ、ん、んう、」
「いつもより熱いな……、お酒飲んだから?」
「ッあ、ひ、なに、これ、っ……」
自重で貫かれるはじめての感覚に、目の前がちかちかする。少しでも負担を軽くしたくて腰を上げようとするけれど、不安定な姿勢のせいか上手くいかず、いいところに当たるだけだった。
「ふ、っく、ひン」
「はは。仔犬みたいだ」
ちゅぽ、ちゅぷ、とはしたない音がして、だんだんと頭がぼーっとしてくる。きもちいい。すき。……すき。あいしてる。ぐっと下腹部に力をこめてペニスを締めつけると、「っく……」と苦しそうな喘ぎ声が聞こえてきた。
「はぁ、あ、れいさん、かわいい……」
「っあ……」
「んっ、んう」
歯をくいしばり、きつく目を閉じて耐えるさまがかわいくて、ふにゃりと顔が緩む。ぐ、ぐ、と力を込めるのはなかなか難しかったけれど、コツさえ掴めば上手くできた。
「っこの、」
「ああ、あっ、あ!」
彼はこちらを睨みあげると、両手で腰を掴んでがつがつと揺さぶりはじめた。硬いペニスが奥を抉り、無遠慮に子宮を押し上げられる。律動にあわせて揺れる車体は、外から見たらひと目でセックスしているとわかるだろう。
「ほら、自分で動いてみせて」
「っぁ、ん、はっ……」
「ん、……そう、上手……」
夢中になって腰を押しつけて、きもちのいいところを擦る。ぐにぐにとうねる膣肉がよろこんで、ペニスをしゃぶり尽くそうとしている。じゅぽ、じゅぷ、とわかりやすく水音が聞こえて、それすら興奮材料になった。
「ふぁ……」
「ふ、そんなに物欲しそうな顔して……」
「やん、あ、あ、れーさん……」
下から揺すられると、からだじゅうの力が抜けていく。早くイきたくて、男をおぼえたなかがきゅっとペニスを締める。
「んむ、ぁう、れい、れいさ……」
「ん……今あげるから……」
「ひぁ、あう」
ぱちゅぱちゅと肉がぶつかるたびに、溢れた愛液が太ももを伝い落ちた。尻肉を左右に押し開いて、より深くにペニスを埋めこまれる。濡れた指が後ろの孔を撫でると、わたしのからだは正直に拒否反応を示した。
「! い、や、そこ、だめぇ……」
「うん、今はね、……そのうち、こっちでもよくなるよ」
「いや、やだぁ……」
短く切り揃えられた爪の感触すら敏感に感じ取って、ひくりとからだがふるえる。嫌がるわたしを見て満足げに目を細め、それから名残惜しそうに指を離した。
「や、イッちゃう、やら、みな、いで」
「いいよ、イッて」
「あ、あっだめ、イく、ッ」
膨らんだペニスに膣内をかき混ぜられ、ほどなくしてなかが大きく痙攣した。絶対にイキ顔は見られたくないのに、この体勢だと隠すこともできない。せめて声は出さないように、彼の顔を見なくていいように、必死に唇を噛んで目をつむって快感に耐える。恋人にだらしない顔をぜんぶ見られていると思うと、びくびくっとまた達した。うねる膣壁に煽られ、彼もペニスを引き抜くとスカートに勢いよく吐精した。
ふたりとも下半身はひどいことになっていた。車のシートを汚すのも、彼のスーツを汚すのも本意ではない。そのまま動けずにいると、彼はくしゃくしゃに丸まったわたしの下着で濡れたところを乱暴に拭い、それをポケットに仕舞った。
「え……」
「ん? 穿くつもりだった?」
「ちが、スーツ……」
「ああ。いいよ、気にしないで」
「うう……」
恥ずかしい。ようやく正常な思考回路が戻ってきて、羞恥のあまり消えたくなった。シートは死守したけれど、スーツもスカートもすっかり汚れてしまった。クリーニングに出さなければ。……それより、このままどうやって部屋に帰るんだろう。まさかノーパンだろうか。いくら今が夜で、短い距離とはいえ、そういうプレイはごめんだった。
そのあと、このスカートを穿くたびに今夜のことを思い出すはめになったので、わたしは二度とこれを穿いて会社には行けず、それこそが彼の狙いだったということに気づくのは、しばらく先の話だ。
2018.09.17 -> 2020.11.22
月曜日のわるだくみ
この時間に帰るのはひさしぶりだな、と前をゆく車のテールランプを見つめながら、男がゆったりとアクセルを踏む。東都の空は濃紺に昼の残りを一滴垂らしたような具合で、それもやがて黒々とした夜に変わるだろう。
帰宅ラッシュ時の車の進みは遅いが、降谷にとっては新鮮だった。渋滞のど真ん中、家で自分の帰りを待つ恋人に思いを馳せる。彼がぼんやりしているのは非常に珍しいのだけれど、残念ながら、それを見かけた幸運な人間はいない。
いつもの倍近い時間をかけて帰宅してすぐ、家の中に漂う知らない香りに降谷は顔を顰めた。厳密にいえば、まったく知らないわけではない。似た香りを、男は以前にも嗅いだことがあった。廊下から彼女の私室、そしてリビングへと辿っていくと、先に帰っていた同居人の姿が見える。
「おかえりー」
「ただいま。……何の匂い?」
彼女は夕飯のことだと思ったらしく、お湯を沸かしている最中の鍋と冷蔵庫から出したばかりの野菜を見比べ、「まだ何も作ってないけど……」とレシピを調べているのであろうスマートフォンを手に困惑した顔で降谷を見上げた。カレーならまだしも、キッチンにはルウの欠片も見当たらない。でも、きっと今日の夕飯はカレーだろう。テーブルに置かれたほうれん草と玉ねぎ、鶏もも肉を横目に見ながら、降谷は脱いだスーツの上着をソファに預けた。
彼女のそばまでやってきた男は、引き続き香りの正体を探していた。ルームフレグランスではない、もっと別のもの。洋服の袖から覗いている細い手首に視線をやると、それに気づいた彼女が「ああ!」と声をあげる。
「今日ね、カウンターで試させてもらったの。新しいのなんだって」
「へえ?」
恋の香りを謳ったそれは、今度新しく発売されるものだという。みずみずしい花の香りは彼女によく似合っていた。
「買ったのか?」
「ううん。迷ってて……香りがどういうふうに変わるのかも気になったし」
賢明な判断だ、と男は感心した。有名ブランドの多くの香水は、つけ始めと終わりで香りが変化する。トップノートが好みのものでも、ラストまでそうとは限らない。うーん、と首をかしげる彼女は、その新作の香水とやらを買おうかどうか悩んでいるらしい。湯を沸かし、しばらく考えてから、冷蔵庫を開けてサラダ菜やらアボカドやらを取り出す。きっとサラダも作るつもりなんだろう。
首元の窮屈なネクタイも緩めてしまうと、降谷はおもむろに手を伸ばして彼女の腕をとった。ひっくりかえして手のひらを上に向けると、無防備な白い手首に唇を近づける。
「……え、」
「俺は嫌いじゃないけど」
ちゅ、と小さなリップ音が聞こえ、彼女は目の前の光景を疑った。男の動作に引き寄せられるようになんとなく見ていただけだったが、ちょうど香水を吹きかけてもらったところに唇を押し当てられ、何を見せられているのだろうと思考が停止する。思わず凝視していると、ちょうどいいタイミングで彼女を見上げた男と目が合い、きれいなブルーグレーの瞳が女を射抜いた。なんてことのないように降谷はさっさと手を離したが、彼女のほうはそれどころじゃない。いったい何をされたというのだ。
とてもじゃないが顔を見ていられなくて、もうとっくに手は解放されているというのに、とられた左腕を庇うように彼女が後ずさった。顔が燃えるように熱い。ただのキスなら、きっとここまでうろたえなかっただろう。
「な、なに、なん……なんで!?」
「確かめただけだよ」
「何を!?」
「何の香りかと、どこにつけたのか」
普段なら手首か、耳の後ろにわずかにつける程度だ。出先で試しにつけてもらったので今日は手首だけだったが、もし耳の後ろだったら……と考えて、今度こそ顔から火が出るところだった。そんなところは、ベッドの中でしかしない。
「顔、真っ赤」
彼女の考えなどお見通しで、降谷は意地の悪い笑みを浮かべながら指摘した。もちろん、すべてわかってやっている。からかうのが楽しくて仕方ない。ころころと変わる表情はいつまでも見ていられる。
「……ご飯作るから邪魔。あっち行ってて」
「カレーだろ。サラダのほう作るよ」
「…………」
取り出し損ねていたルウを探してテーブルに置くと、彼女は男を見上げて絶句した。何も不思議なことはない。先週彼女が見ていたテレビ番組で紹介していたレシピだ。ただし、その時彼女は家にひとりきりで、降谷はその場にいなかったから、彼女が不審がるのも無理はなかった。
恋人の動向を探るくらい、男にとっては日常茶飯事なのだけれど、そのたびに彼女はこうしておどろいていた。それも最近は慣れてきて、彼女はあきらめたようにスマートフォンを手に取り、さっきまで見ていたレシピをもういちど確認して夕食の準備を再開した。耳はまだ赤く、これ以上は本当に怒られてしまいそうなので、追及するのはやめておいた。
夕飯は、降谷の予想したとおりの献立だった。ほうれん草のチキンカレーに、オリーブオイルと塩をかけたサラダ。男のアドバイスでカレーにトマトを加えると、なかなかの出来になった。喫茶店でのアルバイト経験は、こういうところにも活きてくるらしい。
外で食べる時はいつも決まった店でチキンカレーを頼むのだけれど、こういう、降谷にしてみれば〝王道ではない〟カレーも悪くない。明日にはもっと美味しくなっていることだろう。
「あなたもたまにいい匂いするよね」
洗い物を済ませて彼女が座っているソファの隣に腰掛けると、女が思い出したように口を開いた。
「俺が?」
仕事の時は、よほどの事情がないかぎり香水はつけないようにしている。彼女には身分を明かしていないから、きっとオフの日のことを言っているのだろう。
「うん。あれ? つけてるよね?」
「ああ、うん」
まだ安室透として会っていたころ、印象操作のために特定の香水をつけていたことがある。彼女は男の香水のチョイスをえらく気に入っていて、今も休みの日にときおり身にまとうことがある。香りはあの時とは違うものを選んでいるけれど、どうやらお気に召しているらしい。
香りを探しているのか、彼女は男のワイシャツに鼻を近づけているが、今日は普通の仕事だったから香水はつけていない。それがわかると、彼女は残念そうに顔を離した。自分からは何の香りもしないが、彼女のほうはふわりと甘い。あまり意識していなかったけれど、恋人に関していえば、好ましい香りに頬が緩みそうになる。
「ねえ、やっぱり今度お店行くのついてきてもらってもいい?」
「もちろん」
彼女はまだ迷っているようだったけれど、自分が背中を押してやれば、きっと購入を決めるだろう。降谷のほうはといえば、たしかに好きな香りではあるけれど、それよりも彼女がつけた場所に悪戯を仕掛けるほうがずっと楽しい。いまだにスキンシップに慣れない彼女がいったいどんな反応を見せてくれるのか、答え合わせをするのが今から楽しみだ。
2019.01.20 -> 2020.11.22
火曜日のシュー・ア・ラ・クレーム
喧嘩をした。
きっかけはいったい何だったのか、今となってはうまく思い出すことができない。募るのは後悔ばかりなので、きっと些細な理由だったに違いない。
最後に彼と話をしたのは、おそらく一週間ほど前になる。おそらく、というのは、正確な日数を憶えていないからだ。思い出そうとすれば、本当に一週間前なのかどうかを考えることができたけれど、それがいつなのかわかったからといって彼が帰ってくるわけではないので、あまり気にしないようにしていた。
喧嘩をしたその日は、家に帰るのがひどく億劫だった。朝、出勤前の忙しい時に口論になり、そのまま家を飛び出した。部屋に彼がいるかもしれないと思うと気が沈んで、その日は残業をして帰った。にもかかわらず、帰宅した部屋には誰もおらず――本当に勝手なのだけれど――それがますます彼女を腹立たしい気持ちにさせた。いないと知っていればもっと早く帰ってきたのに、とささくれた気分で夕食をつくり、ひとりで食べた。
とはいえ、彼女もそこまで子どもではなかったので、いちおう降谷のぶんの食事も用意して冷蔵庫に入れておいた。朝よりも気持ちは落ち着いていたし、自分のぶんだけつくって文句を言われたくないという思いもあった。メモこそ残さなかったものの、仕事終わりの彼はきっと気づいてくれるはずだ。明日の朝になったらお互い気まずい顏をしながら謝って、仲直りすることを期待した。けれど、夜が明けても玄関のドアが開くことはなく、数時間前につくった食事は手付かずのまま、食べてくれる人間が現れるのを待ちつづけていた。
そうして、翌朝になると、もしかしたら彼は自分に愛想を尽かしたのかもしれない、と考えながら、彼のぶんの生姜焼きとポテトサラダを食べきってしまった。その日の夜も、次の日の朝も、男は帰ってこなかった。
思えば、こんなことは初めてだった。
軽い言い合いをすることはあっても、いつもその場かぎりの口喧嘩で、ここまで引きずったことはなかった。きっと今まで平和的解決ばかりしてきたのだろう。彼が折れた時もあれば、自分から謝った時もある。今回は、どっちが悪いんだっけ。わからないまま数日が過ぎて、だから自分は家にひとりなのだ。
降谷が不在のあいだも、彼女はいたってふつうに日常を送っていた。彼のほうはもともと不規則な生活をしていたので、何日も顔を見ていない、というようなことはこれまでにもざらにあった。彼女が帰ってくる時間に降谷が家を出たり、起きた時には部屋で眠っていたり。ひどい時には、何日も帰ってこないことだってあった。この喧嘩の最中も顔を合わせていないだけで、日中、彼女が仕事に行っているあいだに家にいるらしかったけれど、帰宅すると男はもういない。同じ家で生活しているのは確かだが、どうにも彼が自分を避けているような気がしてならなかった。
今日も彼女は誰にも見送られずに仕事へ行き、誰もいない部屋に帰る。干された洗濯物と、テーブルのうえに並んだ料理。わずかに湿っているバスルームのタイルが、惨めな気持ちを加速させた。
いよいよ家にも寄りつかないようになると、悪いことばかり考えてしまう。部屋は朝と同じままで、相変わらず連絡もない。自分に愛想を尽かしただけならまだいい。連絡のひとつもないので、彼の身に何かあったんじゃないかと不安でたまらなくなる。理由も思い出せないようなことで喧嘩なんかしなければよかった。あの時すぐに謝っていれば。いまさら後悔したって遅いのに、彼にこの家に帰ってきてほしかった。
だから。
その日の夜遅く、滅多に鳴らないはずのインターホンが来客を知らせ、モニター越しに恋人のすがたを見つけた時は、幻か、幽霊でも見ているのだろうと思った。おどろきのあまり後ずさると、鍵が差し込まれる音が聞こえるのとほとんど同時に玄関のドアが開いた。
開いたドアの向こうに、いなくなったはずの恋人がいた。最後に見た時と変わらないすがたでそこに立っている。感情の読み取れない目が彼女を見つめ、そこから動けなくなった。がつん、と革靴を大きく鳴らして距離を詰められると、ひっ、と情けない声が出る。男は怪訝そうな顔で女を見下ろしていた。
「……どうしてそんな……俺の顔になにかついてる?」
恋人と同じ顔の男が恋人と同じ声帯で喋るので、彼女はひどく混乱した。話し方も、こちらに向けられるすこし呆れたような視線も、彼女がよく知っている恋人そのものだったからだ。
「ふ、降谷さん……?」
「……ほかに誰に見えるっていうんだ」
男はあの日の朝と同じ格好をしていて、くたびれたグレーのスーツが、仕事のために連絡がつかなかったことを――というかそれ以外考えられないのだけれど――物語っている。
「よかったぁ……」
「え?」
「怒って出て行ったのかと思った。ぜんぜん会えないし、帰ってこないし、連絡もないから何かあったんじゃないかって……」
「っ……仕事で出なきゃいけなくなって、家にもほとんど帰れなくて……連絡する暇もなかったんだ」
でもやっと帰ってこれた……と、搾り出すような声で男が言う。一週間ぶりに見た恋人は、憔悴しきっているように見えた。
これまでだって、一週間どころか一月家を空けることもあったのに。喧嘩をしたタイミングで連絡がとれなくなったので、余計に心配してしまった。
「あの、ご飯食べる? まだ作ってないけど……」
「……食べる」
彼女もさきほど帰ってきたばかりで、ふたりとも似たような状況だった。この時は彼が手に持っている白い箱がいったい何なのか気にも留めずに、すぐに夕飯の支度に取り掛かった。
その箱の正体を知ったのは、ふたりで食卓を囲んだあと、コーヒーを淹れて一息ついていた時だった。とつぜん席を立ったかと思うと冷蔵庫から箱を持ってきて、中身を白いデザートプレートに盛りつけた。
「わ……おいしそう。どうしたの?」
「前に食べたいって言ってただろ」
目の前には、アーモンドやピスタチオがごろごろと入った、プラリネのシュー・ア・ラ・クレーム。雑誌かなにかの特集で見かけて気になっていたのを、憶えていてくれたらしい。口のなかに広がる甘さは控えめだけれど、どっしりとボリュームがあり、彼の淹れたコーヒーとよく合った。
「この前……、予定、キャンセルしただろ」
お土産の理由は、先日の一件らしい。シュークリームを食べながら記憶を辿り、そこでようやく思い出した。どうして喧嘩をしたのか。あの日の朝、なにが起きたのか。
出勤前の朝の、なにげないやりとりのはずだった。休みではないが、仕事の後なら時間が取れるからと、その夜は彼と会う約束をしていた。会社帰りのデートを楽しみに、おろしたてのワンピースを着て、ばっちりメイクもした。
だけど、家を出る直前になって、スマートフォンで誰かと電話していた男が、ごめん、と彼女に謝った。
「夜、急用が入って……行かないと」
「……もう用意しちゃったんだけど」
明らかに、予定があります! というような格好だ。新しいワンピースと、いつもよりすこしだけ華やかなメイク。仕事をするぶんには問題ないけれど、気合いが入っているのはばればれだった。家を出る時間が差し迫っていたので、今から着替えることもできない。男の仕事のことは理解していたつもりだったけれど、むっとして思わず喧嘩腰になってしまった。
「今日は大丈夫って言ってたじゃん」
「ごめん。今度埋め合わせする」
仕事より自分を気にかけてほしいわけじゃない。でも、せっかく彼のためにがんばったのに、それがぜんぶ無駄になるようなタイミングで言わなくたっていいじゃないか。せめて昨日のうちに言ってくれたら、わざわざ早起きなんてしなかったのに。さっきの電話で急に決まったことなのはわかっていたけれど、八つ当たりせずにはいられなかった。
「……ドタキャンばっかり」
「それは……、悪いと思ってる。でも、仕方ないだろ」
言い争いをしたいわけではないのに、口から出るのはかわいげのない言葉だ。降谷はくちびるを尖らせ、じとりと彼女を睨んだ。感情的になるのはいつも彼女のほうなのに、あの日は違った。普段は落ち着き払っている男が、珍しく言い返してきたのだ。
「いつもそうじゃん、……わたしばっかり振りまわされてる」
「っ、俺だって……!」
どん、と勢いよくテーブルを叩かれ、彼女は肩をびくつかせた。初めて見る彼の態度に、表情におどろいて、そのまま逃げるように家を出た。それが最後だった。
……ほんとうは、彼がいなくなってどのくらいのになるのか、きちんと憶えていた。どうしたらいいのかわからず途方に暮れて、部屋を出て行くこともできなかった。
たぶん、いっしょにいることに慣れてしまったのだ。彼のいない生活を、想像したことがなかった。いつのまにか自分のなかで彼の存在が大きくなっていて、だけど、彼のほうはそうではないのだと。そう思った時、どんなに打ちのめされたか。
「……俺も、楽しみにしてたんだよ」
「……えっ」
「なのに仕事で呼ばれて……ぜんぜん帰れないし……」
そんなにいじらしいすがたを見せられると、何も言えなくなってしまう。彼はいつも余裕たっぷりで、自分はそれに一喜一憂していたというのに。
「あの、今度から喧嘩したら、こうやって何か買ってくるのはどう?」
「は……?」
「こんないいのじゃなくていいから、プリンでも、アイスでも……そしたらぜんぶ許すってことにしない?」
「……許すなんて……それでいいなら、いいけど」
だいたい、俺のほうが無理させてるのに。降谷はそういったけれど、彼との生活を選んだのは彼女だ。大切なことは言葉にしないと伝わらないし、時にはぶつかることもあるかもしれないけれど、仲直りのルールは楽しいほうがいいに決まってる。
「俺にも非があるし……直せるところは、努力する」
「降谷さん、わたしに甘いなあ」
彼女は笑いながら、男が買ってきてくれたスイーツを頬張る。指についたクリームをぺろりと舐めて平らげると、彼がコーヒーのおかわりを淹れてくれた。甘さのあとに、ブラックの苦味が広がる。むかしはコーヒーが苦手だったけれど、いまはこれが嫌いじゃない。
それを教えてくれたのは、目の前にいる彼だったから。
2019.01.20 -> 2020.11.22
水曜日のくしゃみ
くしゅん、と耳慣れない音が聞こえた気がして、彼女はテレビを見ていた顔をぐるりと後ろに向けた。視線を向けられた張本人も、神妙な面持ちで不思議そうに首を傾げている。彼はキッチンに立って、グラスに水を注いでいるところだった。この時間に、というより、部屋に彼がいることはとても珍しい。久々の帰宅だった。
なんとなく振り向いただけだった彼女は、顔を正面に戻してふたたびテレビの画面を見つめる。男も、グラスの水を飲み干すと、彼女のそばにやってきてそのすぐ隣に腰掛けた。リビングにあるソファは、ふたりぶんの体重を受けて音もなく沈んだ。
ふわ、と湯上がりの体温といい匂いを纏った男は、ぽかぽかとあたたかそうだ。彼女もお風呂に入ったけれど、彼が帰ってくる少し前に済ませていたので、体温はもとに戻ってしまっていた。
「明日はお休み?」
彼の仕事は不定休で、一応公務員ではあるけれど、土日も家を空けることが多い。それどころか、平日も残業ばかりで帰ってこない日だってある。今日は珍しく家にいるものだから、なんとなく訊ねてみた。
「仕事」
「だよね」
休日もあってないようなもので、たまに家にいる時に「休みなの?」と訊ねても「待機」と返ってくる。そのまま何もなければ一緒にいられるし、呼び出しがあれば行かなければならない。一緒に生活するにあたって、仕事のことは聞いていたので寂しさや後悔はないけれど、大変そうだな、というのが率直な感想だった。
「ごめん。次の休みはどこか行こう」
「あ、ううん。そういう意味じゃなくて。忙しそうだなって思っただけ」
ソファに座った男はローテーブルの上に投げっぱなしにしていたタブレットを手に取り、熱心にディスプレイを見ている。彼女の目の届くところに置いてあるということは仕事関係ではないだろうから、たぶん雑誌か、読みさしの小説だろう。漫画を読んでいるところは見たことがない。
なんとなく見ていたドラマはいつの間にか終わりを迎え、画面の向こうでは深夜のバラエティ番組が始まっていた。とくに見たいものがあるわけでもなく、このままだらだらとリビングに居座ると日付を超えてしまいそうだったので、テレビを消して寝室へ向かうことにする。部屋に沈黙が訪れて、二人の気配を色濃くした。
「降谷さんは? まだ寝ない?」
「やることがあるから、もう少し起きてるよ」
「そう? じゃあ……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
生活リズムが合わないことを考えて、家にはそれぞれ寝室を兼ねた自室があった。部屋にひとりきりでも、家に誰かがいるのはいい。それだけでみたされるし、安心する。ベッドに横たわって電気を消すと、それから間もなく眠りについた。
それがつい昨晩のこと。
朝になっても起きてこない恋人を不審に思い、部屋へ様子を見に行こうとしたところで、男は姿を現した。
「あれ? ……え、ちょっと」
立ったままこちらを見ている彼は、あきらかに顔色が悪かった。普段ならもう仕事に行っている時間なのに、いまだに白のスウェット姿のままでいる。あまり見たことのない不機嫌な表情にどきっとしたが、きっと具合が悪いせいだろう。
「し、仕事は?」
「行く」
「休みなよ!」
思わず叫ぶと、男は眉をしかめて彼女を見下ろした。頭に響くのだろう。それならますます仕事には行かせられない。心配だし、他の人に移してしまったら迷惑だ。彼も同じことを考えていたようで、言い返すようなことはしなかった。その場でスマートフォンを取り出し、すぐに電話をかけはじめた。彼女の前で電話をするということは、たいした話ではないのだろう。なるべく気にしないようにしながらも、こっそりと耳を傾けていると、今日は仕事を休むこと、急ぎの用があれば連絡してほしいということを伝えているのが聞こえてきた。そのままひとことふたこと言葉をかわし、通話はすぐに終了する。連絡を入れたことでほっとしたのか、さっきよりも疲れているように見えた。
「風邪かな。熱はない?」
「うん。体はだるいけど」
「それじゃあ、今日はゆっくり休んでね」
「……きみは?」
「そろそろ行かないと……」
冷蔵庫には何かしらはいっているので、食事に困ることはないだろう。幸いにも起き上がれてはいるようだし、ひとりにしても問題はなさそうだ。
「なるべく早く帰ってくるようにするけど、何かあったら連絡してね」
「ああ」
「……だいじょうぶ?」
「平気だよ。寝たら治る」
本人の言うとおり、何徹目か明けの時よりは体調がよさそうだったので、とくに気にせずに彼に見送られながら家を出た。
仕事にあまり集中できていないことは、彼女がいちばんよくわかっていた。理由は簡単で、家に残してきた恋人が気になってしょうがないから。昼休みまではあと一時間ある。合間にチェックしていたスマートフォンに新着のメッセージはなく、それがますます彼女の気持ちを落ち着かなくさせた。
連絡がないということは何も起こっていないはずだ。自分を見送ってから、部屋でおとなしく眠っているのだろう。通知音で起こしてしまうのも悪いと思い、こちらからの連絡はぐっと堪えた。
とはいえ、このままでは午後の仕事が手につかないのは目に見えていた。彼女は適当な理由をつけ、午後の休みをとって家に帰ることにした。今日はそれほど忙しくはなかったし、上司や同僚たちは快く送り出してくれたので、ありがたく職場をあとにする。
家に帰る前に、スーパーマーケットに寄った。食欲がなくても食べられるようにと果物やゼリーを探しながら、彼女は自分が熱を出した時のことを思い出していた。
幼いころ、風邪をひいて学校を休んだ自分に、母親はゼリーやジュースを買い与えてくれた。とくにゼリーは風邪をひいた時くらいしか食べる機会がなかったから、実はあまり好きではなかったりする。彼も同じような理由で嫌いだったら申し訳ないなと思い、自分が食べることになった時のことを考えて悩んだ末にグレープフルーツの入ったものを選んだ。
「ただいまー……」
数時間ぶりに帰ってきた家は、やけに静かだった。玄関に靴が出ているから、家にはいるはずだ。起こさないようにそっと寝室を覗くと、眠っている男のすがたが見えた。そのままドアを閉めてキッチンを見てまわるが、食事は摂っていないらしい。彼女も人のことは言えないが、男は自分のことになるとどうも蔑ろにしがちだ。
食欲がなくても何か口にしたほうがいいだろうと、すりおろしたりんごとお粥を用意し、彼が起きてくるまでのあいだ、リビングで本を読むことにした。買ったことに満足してろくに読み進めていなかったので、ひさしぶりにページを繰った。途中、午後の眠気が彼女を襲ったが、自分が寝てしまっては看病のために帰ってきた意味がない。何もないのが一番だけれど、何かあった時には真っ先に飛んでいきたい。だから、昼寝もせず、テレビもつけないまま、時計の秒針の音と開かない寝室のドアに耳を傾けながら、ひとりの時間を過ごした。
いったいどのくらいそうしていただろう。うす暗くなってきた室内に気がついて顔を上げると、時刻はすでに夕方に差し掛かっていた。彼女が最後に中を覗いたのは数時間前で、それきり物音のひとつも聞こえてこない。本当に眠っているのか、そもそもそこにいるのか不安になって扉を開けると、やはり男は部屋にいて、最後に見た時と同じ格好で眠っている。
水に濡らして固く絞ったタオルで額に浮かんだ汗を拭ってやると、降谷はわずかに身じろぎをした。起こしてしまっただろうかと身構えていると、うっそりと瞼をもちあげた彼と目が合う。彼女は屈んだままの体勢で、男の顔を覗きこんだ。
「具合どう?」
「……喉渇いた」
「ひどい声だよ。……起きられる?」
降谷はのろのろと上体を起こし、だるそうに彼女を見つめている。つめたい水の入ったグラスを渡すと、一気に飲み干した。朝よりは顔色がよくなったように見えるけれど、具合が悪そうなのは変わらない。それでも、本人はだいぶ快復しているらしく、けほ、とひとつ咳をしてからもう一杯水をねだった。
グラスに新しく水を注ぐついでに、数時間前に用意したすりおろしりんごとお粥も持ってくると、彼は逡巡したのちにりんごの器を手に取った。甘いほうがお好みだったようで、お粥のほうはあとで食べるといわれた。
「他に食べたいものとか、欲しいものとかある? ゼリーもあるよ」
「ゼリー?」
「風邪ひいた時って、ゼリー食べなかった?」
「……あんまりひかないからな」
うーんと首を傾げていたので、ゼリーはもうしばらく冷蔵庫に入れておくことにした。彼が体調を崩しているところはこれまで見たことがなかったけれど、どうやら本当に珍しいことのようだ。寝ている間に汗をかいていたので、着替えを渡して、もうすこし眠るようすすめた。
「暇だろ」
大変だろう、とは言われなかった。彼女が看病を苦に思っていないと知ってのことだった。どちらかといえば、せっかく二人揃って家にいるのに、相手をしてもらえないのがつまらない。本当はいっしょの部屋にいたかったけれど、気を遣わせては悪いと思い、すぐに出ていくつもりでいた。
「早くよくなるといいね」
「……なあ」
名前を呼ばれ、ドアに向かっていた足を止めて振り向くと、こちらへ来るよう手招きされる。
「どうしたの?」
しゃがんで目線を合わせると、伸びてきた腕がぎゅっと彼女の手を掴んだ。すこし熱っぽいのか、常よりもずっと高い体温は子どもみたいだ。湿っぽい大きな手を握りかえしてやると、男が安心したような表情を見せる。潤んだ目で見つめられ、病人相手に変な気を起こしそうになった。
「もう少しここにいてくれ」
この人でも弱っている時は人肌が恋しくなるのだろうか、と考えながら、彼女は黙って降谷の傍に座りこんだ。数時間前に感じた眠気はどこかに吹き飛んでいて、彼女に見守られながら、男はふたたび眠りにつこうとしていた。きっと、日々の疲れもあるのだろう。そうして寝息が聞こえてくるまで、五分もかからなかった。男が眠ってもしばらくのあいだ、彼女はそこに留まって寝顔を見続けていた。
2019.01.20 -> 2020.11.22
木曜日のよふかし
大抵の日、彼女の帰宅は降谷よりも早い。休みだって、男のほうはいつが休日なのだろうという有様だし(聞くのが怖いので訊ねたことはない)、たまに家にいると思ったら、着替えを取りにきただけなんてこともざらだ。日中、仕事をしているあいだに家に帰ってきたり、彼女が起きるよりも早く出て行ったり、数日帰ってこなかったり。生活サイクルが合わないのはわかっていたが、ここまでだとは思わなかった。それでも、とくべつ寂しく思うことがないのは、家のあらゆるところに彼の痕跡があるからだろう。たとえばこれが海外出張とか、長期の不在とかなら話は変わってくるのだろうけれど、彼の場合は家にいなくても生活感があるので、そんなふうに思ったことはなかった。
だから、その電話を受けた時も、意味を正しく理解するのにすこし時間がかかった。彼女はキッチンに立って夕食の準備をしている最中で、残業をしてきたのでいつもより遅い帰宅だったけれど、この日もやっぱり、降谷より早く家に着いた。
あと十分もしないうちに完成するというところで、テーブルの上に置いてあったスマートフォンが震えて着信を知らせた。どうやらマナーモードを解除するのを忘れていたようだ。火を止め、スマートフォンを手に取る。
「もしもし?」
相手はわかっていたので名乗らずに電話に出ると、ひさしぶりだなあという感じがした。いっしょに暮らしているのにおかしな話だけど、ここ最近は顔を合わせていなかったし、やり取りも数日前にメールを送ったのが最後だ。だから、声を聞くのは本当にひさしぶりで、すこしだけ緊張した。
『いま、家にいる?』
「うん? そう。夕飯作ってた」
『火は止めただろうな』
「ちゃんと止めました!」
よろしい、と聞こえた声に満足し、何か用かと訊ねると、彼にしては珍しい歯切れの悪さで、今日は帰れない、ということを伝えられた。そんなのは別にいまさらで、どうして連絡をくれたのだろうと考えていると、どうやら彼なりに申し訳ないと思っているらしかった。
「ええー、別に気にしなくていいのに」
『きみはもうちょっと寂しがってくれ』
「降谷さんは寂しい?」
冗談のつもりで聞くと、電話の向こうにいる男が押し黙った。そんなわけないだろ、と一蹴されると思っていたら、かえってきたのは予想外の言葉だった。
『そうだな。そろそろひとりのベッドで眠るのにも飽きてきた』
「……は、」
そんなことを言われるとは思わず、今度はこちらが沈黙してしまう。静かになった彼女にはかまわずに、男は『明日には帰れると思う』と話を続けた。
「……あ」
そこで彼女が思い出したように声を発したので、降谷は何事かと訊ねかえした。
『どうした?』
「ううん。お鍋作っちゃった」
『……ちょっと待って』
それだけ言うと、男はスマートフォンを手に持ったまま人と話しはじめた。通話口を押さえているのか、会話の内容までは聞こえないが、どうやら仕事中のようだ。
『ごめん』
「大丈夫?」
『ああ。……夜中には帰れるから、残しておいてくれ』
「えっ」
『〆はうどんがいい』
どうやら彼は、どうにかして今夜じゅうに帰ってくるつもりらしい。最近はとくに忙しそうだったし、わざわざ帰ってこなくても、と思わなくもない。ただ、ふたりで食べるために作った鍋をひとりで消費するのは苦労しそうだなあと思っていたから、リクエストには応えなければ。
「うどんね。わかった」
それだけ返事をすると、あっという間に電話は切れた。たった数分の会話で、彼はいとも簡単にこちらを浮かれさせる。明るい気持ちでキッチンに戻り、冷蔵庫の中身を思い出す。冷凍うどんは、まだあっただろうか。
降谷が帰ってきたのは、宣言どおり真夜中だった。彼はきっと、寝ているこちらを起こさないように気を遣うだろうから(どういうわけか、彼は気配を消すのがとてもうまい)、起きた時に気づけるように、ふだんは消している間接照明を点けたまま眠った。
玄関のドアが開く音は聞こえなかったが、人の気配を感じて目を覚ました。起き上がってキッチンに行くと、彼はとてもおどろいた顔をしていた。
「起きてたのか」
「ううん……でも、そろそろ帰ってくると思って。おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
男からは、外の冷たいにおいがした。仕事から帰ってくるといつも、奇妙で硬質な空気をまとっている。だから、帰宅してすぐは、彼女はすこし緊張しながら様子を窺う。男が、自分の知らない人間のように思えるから。降谷もそれはわかっていたけれど、それについて触れたことはなかった。
「本当に残しておいてくれたんだな」
「だって、ひとりじゃ食べきれないし」
男は外から帰ってきた格好のままで、着替えてくるつもりはないらしい。彼女は鍋を温めなおし、彼のぶんを器に盛る。今回は初めて豆乳鍋にしてみたが、それなりに美味しくできたと思っている。
降谷は珍しく、冷蔵庫にあった缶ビールを開けていた。人が飲んでいるとつい自分も飲みたくなってしまうが、深夜だったので、男が飲んでいるのを見るだけにとどめた。
「沁みる……」
「よかった。苦手じゃなかった?」
「美味いよ」
一気につゆを飲み干して器を空にしたので、慌ててもう一杯よそう。それから、すこし悩んだ末に冷凍うどんを投入した。本当は明日の朝に食べるつもりだったが、野菜はまだ冷蔵庫にあるし、また足せばいいだろう。
煮込んだうどんは二人前で、自分のぶんもいっしょに盛ってくると、降谷は目をまるくしてこちらを見ていた。
「なに?」
「いや、きみも食べるんだなと思って」
「だって、お腹空いたし……」
お酒はがまんできたが、目の前であんなにおいしそうに食べられたら、お腹が空くに決まっている。真夜中だけど、鍋ならノーカンだろうという謎のルールにより、ふたりでうどんを食べる。まろやかな豆乳が太い麺に絡んで、いくらでも食べられそうだったがぐっと堪える。明日のぶんを残しておかないと、と思いながら、なんとか一杯で止めておいた。
「そういえば、仕事はよかったの?」
電話がかかってきた時、彼はおそらく職場にいて、だれかと話をしていた。今ここにいるということは、帰ってきても支障がないということだろうけれど、たとえば朝になってまたすぐに出なければならないとなると大変だ。
「他のやつに任せてきた。明日は……もう今日だけど、午後から行くよ」
スーツの上着を脱いだ男はワイシャツの袖を捲り上げて、食卓でちびちびと缶ビールを飲んでいる。比較的ゆっくり家にいられるのだとわかって安心すると、気が緩んだのか欠伸が出かかった。いつもはこの時間はベッドの中だから、眠いのは当たり前だ。眠気をこらえている彼女に気づいた男がゆったりとほほ笑んだ。
「きみこそ、明日も仕事だろ。付き合わせて悪かったな」
「いいよ、勝手に起きてるだけだし」
それでも、いよいよがまんできずに欠伸をすると、降谷は今度こそ声をあげて笑った。彼に甘えて洗い物は任せることにして、もう一度歯を磨いて部屋に戻る。ひさしぶりにいっしょに寝られるかもしれないと期待したけれど、ベッドに入るなりすぐに眠ってしまい、次に目を覚ました時には朝になっていた。
眠っているあいだ、隣に彼がいたような気がしたけれど、彼女が起きる頃には彼はもう支度を整えて、朝食の用意をしてくれていた。豚肉と豆腐と白菜、水菜を追加し、美味しそうな雑炊ができあがっている。
「柚子入れた? 美味しい」
彼はとても器用な人間で、料理も運動も、ひととおりのことは何でもできる。レシピにアレンジを加えるのも上手で、まろやかな豆乳の風味のなかに柚子がきいていて絶妙だった。
「今日も遅くなるけど、週末はゆっくりできると思う」
朝から美味しいものを食べて幸せな気持ちでいると、彼は突然そんなことを言った。基本的に忙しいのは知っているので、本当だろうかと疑わしい気持ちでいると、こちらの心を見透かしたかのように言葉をつづけた。
「しばらく忙しかったから、休めって言われてるんだよ」
「それは……上司に? それとも部下の人?」
「どっちも」
「じゃあ休まないと」
くすくすと笑うと、男はため息をついた。以前、じっとしているよりも働いているほうが性に合っていると言っていたから、落ち着かないのかもしれない。休むのも仕事のうちだということは、彼もよくわかっているはずだ。
「送ろうか」
朝食を食べ終えて身支度を整えていると、降谷は彼女にそう声をかけた。彼が家を出るまでにまだ時間があるから、善意からそういっているのだろう。
「ありがとう。でも大丈夫。ゆっくりしてなよ」
しかし、彼女はやんわりと男の申し出をことわった。魅力的な提案ではあったけれど、多忙を極める彼に休んでほしいというのと、あとは会社のひとに見られたくないという理由が半々だ。白いスポーツカーから出てくるところを見られでもしたら、同僚に何を言われるかわからない。降谷にとっては願ったり叶ったりだが、彼女が望まないのなら無理強いはしたくない。降谷のことを気遣ってか、周囲にはあまり恋人の話をしないようにしているらしかった。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
いつものやり取りをしながら、たまには彼女に見送られたい、だなんて。
男がそう思っていることを知らない彼女を見送ってから、降谷はひとつ欠伸をして、もうすこし眠ることにした。
2019.01.20 -> 2020.11.22
金曜日の恋人たち
「部屋にいるから、何かあったら呼んでくれ」
降谷が同居人にそう伝えたのが数時間前で、聞き分けのよい彼女は「はあい」と間延びした返事を寄越すと見ていたテレビに意識を戻した。
彼がそんなことを言うのは、仕事こそ持ち帰らないものの――この家に仕事に関する情報を持ち帰るのはリスクが高すぎる――考え事をしたり物思いに耽りたい時で、それは大抵、自室のドアを締め切って行なわれた。
ひとりの時間が必要だということを彼女はきちんと理解していて、それだけが理由ではないけれど、いっしょに暮らしながらお互いにプライベートな空間を持っているのは、そんなところにも起因する。
そうして一時間から二時間ほど部屋にこもっているあいだに、彼女はテレビを見るのをやめ、お風呂に入ることにしたらしかった。水音が聞こえてきて、それがしばらく止んだかと思うとまたシャワーの流れる音がする。ドライヤーで髪を乾かし終えると、降谷の部屋の前を通り過ぎ、リビングへと戻っていく。きっとまたテレビでも見るのだろう。その頃には男の集中力も切れかかっていて、彼女に続いてバスルームへと足を踏み入れた。
朝はシャワーで済ませることが多いけれど、時間がある時はなるべく湯船に浸かるようにしている。そのほうが温まるし疲れも取れるので、彼女にもそうするよう常日頃から勧めていた。ひさしぶりにゆっくりと浴槽に入り、のんびりとした時間を過ごす。適切な湿度で保たれたバスルームは居心地がよく、つい長湯してのぼせそうになった。
タオルハンガーに掛かっているバスタオルからは、彼女が使っているボディソープの香りがした。換気扇はつけっぱなしにしておき、まだ濡れている髪をタオルで乱暴に拭いながら脱衣所を出た。
廊下の明かりは消されていたが、その向こうのリビングは電気がついているのが見えた。テレビの音が聞こえてこないのを不思議に思いながらそちらへ向かうと、視界に入ってきた彼女の姿に目を丸くする。
「……寝てるのか」
とくべつ面白いことがあるわけでもない、ただソファで眠っているだけなのだが、降谷にとってはとても珍しい光景だった。おどろいているこの男の表情だって滅多に見れるものではないのだが、あいにく彼女は眠っているのでそれを目にすることはなかった。
降谷の知るかぎり、彼女は人前で眠ろうとしないタイプの人間だった。車の助手席に乗っていても、リビングで眠たそうにしていても、目的が「睡眠」以外の場面では寝顔を見せようとしない。もしかしたら降谷が家を空けている時、たとえば休日の日中なんかにソファで昼寝をすることもあるのかもしれないけれど、降谷はそれを知らないし、目にすることもないだろう。
どうやら彼女は、スマートフォンをさわっているうちに寝落ちたらしい。今日は金曜日だし、一週間分の疲れが溜まっていたのだろう。男は彼女のからだとソファのあいだで潰されそうになっていたスマートフォンを取り上げ、テーブルの上に置き直した。
しばらくのあいだ、ソファの空いている場所に座って彼女の寝顔を見下ろしていたが、一向に起きる気配はなく、いつまでもそうしているわけにもいかない。エアコンが効いているとはいえ、薄着の彼女が風邪をひかないともかぎらないので、心を鬼にし、起こそうと決めてからの行動は早かった。
「おい、起きろ。風邪ひくぞ」
「ううん……」
彼女の肩を揺さぶってみるが、子どもがぐずるみたいにそっぽを向かれてしまい、ソファの上から動こうとしない。どうせ明日は休みだろうが、それにしたって眠るならベッドのほうが寝心地もいいはずだ。名前を呼ばれていることには気づいているのか、それともまだ寝ぼけているのか、うう、と言葉にならない呻き声を漏らしている。
「ったく……」
このままでは埒が明かない。起こすよりもベッドに運んだほうが早いと判断して、ぐったりと力の抜けたからだに腕を回すと、そのまま抱き上げて部屋に連れて行くことにした。
ぐっすり眠っているものだと思っていたが、多少乱暴に扱ったのがいけなかったのか、彼女はベッドに辿り着く前に降谷の腕のなかで目を覚ました。もっとも、自分がどういう状況なのかはわかっていなかったようで、シーツの上に降ろしたところでようやくぱっちりと目をひらいた。
「あ」
起きた、と降谷が呟くよりも先に、彼女が腕を伸ばして首に絡んできた。男の首筋に顔を寄せて、力いっぱいぎゅうぎゅうと抱きついてくる。リビングから運んできた彼女をベッドに降ろした直後で、体勢が近かったのをハグと勘違いしたのかもしれない。あるいは、まだ寝ぼけているのか。理由は何にせよ、ふだんはこんなに積極的ではないから、男は面食らった。今夜はおどろいてばかりだ。だけど、それよりもうれしさが勝って、同じだけの力で抱きしめかえす。ふわりと彼女のシャンプーが香り、しあわせな気持ちで肩に顔を埋める。柔らかくてあたたかくて、いいにおいのする女の子。
「あ……えっ、あれっ?」
ふるやさん? と呼ぶ声が聞こえたのはその時だった。ぎくりとからだをこわばらせて男から離れようとする彼女を、逃がさないとばかりに抱き寄せる。
「な、なんで、わたし、ベッド……」
「ソファで寝てたから運んだんだよ。そしたらきみが抱きついてくるから」
「わー!」
薄暗くてもわかるくらい顔を真っ赤にして距離を取ろうとする彼女に、男がむっとした顔を見せた。金曜の夜、ふたりきり。せっかくいいムードだというのに、期待していたのは自分だけなんだろうか。
前髪が青い目にかかるようにしてその隙間から見つめると、目の前にいる恋人はぎゅっとくちびるを結んだ。彼女の好きな表情をつくり名前を呼んでやれば、あとはずるずると落ちてきてくれる。しおらしくそっと目を伏せたのが何よりの証拠だ。
「……ずるい」
「どっちが」
あんな期待させるようなことをしておいて、いまさら。ずるいのは彼女のほうだ。それでも、ことを進めてもよいのだと判断して、ちいさく突き出されたくちびるに自分のそれを重ねた。啄ばむように何度かふれてから、うすく開いたそこへ舌を忍び込ませる。キスの相手なんて彼が初めてではないだろうし、いわゆるフレンチキスと呼ばれるたぐいの経験がないわけでもなかろうに、降谷がキスをしようとすると彼女はいつもびくりと肩を震わせた。それが経験の浅さからくるものではなく、期待によるものだと気づいたのはしばらく経ってからだ。無意識に腰を揺らし、上手にこちらを誘う。角度を変えてくちづけを深めてゆきながら、ときおりそっと目を開けて悩ましげな表情を盗み見た。
粘膜をふれあわせたほうがずっと気持ちいいことを知っている彼女は、初めこそ恥ずかしがっていたものの、今では積極的に舌を使うようになった。たどたどしいのは最初だけで、男にされたのを真似して同じように返してくる。そう教えたのは降谷だから、彼好みの女の子になってゆくのは僥倖だった。
熱くて柔らかなくちのなかに流し込んだ唾液をこく、と飲んだのを見届けると、降谷はようやくくちびるを離した。キスだけで全身の力が抜けてしまったようで、男の肩口にしがみつき、ぼうっとした顔で降谷を見上げる。
とん、と軽く肩を押してやると、往生際の悪い彼女はシーツのうえを這って逃げ腰になった。追いかけるのは得意なほうだが、恋人にまで逃げられるのは心外だ。ベッドに腕をつき、これ以上は逃げられないように脚のあいだに割って入る。
「あ、ちょっと、うそ」
ほとんど泣きそうな声が聞こえてきて、ぞわりと背筋が粟立つのを感じた。そんなつもりはなかったのに、加虐趣味を煽られたような気になっていけない。ぐっと膝を押しつけると、布越しでも彼女の中心部が濡れているのがわかり、思わず笑みが零れた。
寝間着をたくし上げ、ブラをつけていない胸に顔を埋める。上品な石鹸のにおいがして、そうしていると気持ちが落ち着いたが、彼女はここを舐められるのが好きなようなので、期待どおり舌を伸ばした。
「んっ……」
日に当たらないしろい乳房を食んで、先端をくちに含む。噛まれるよりも吸われるほうがいいらしく、舌で押し潰してからねっとりと舐ると、ふぁ、と甘い声でかわいらしく鳴いた。
「んぅ、は、ぁ……」
顔を横にそむけて愛撫に耐えている彼女を見ながら、もう片方の胸も同じようにくちに含んだ。しばらくして、ちゅ、とリップ音をたてて解放すると、乳首は唾液でべたべたに濡れてぷっくりとたちあがっていた。
衣服を脱がせようと手を差し込むと、彼女は腰を浮かせて手伝ってくれた。ボトムスを膝までずり下げたところで、下着のクロッチ部分がぴたりと張り付いていることに気がついた。
「……すごい。びしょびしょ」
ふっくらと盛り上がっている部分に指を押しつけると、ショーツにじわ、と水分が染み出る感触があった。きっと彼女にも伝わっているだろう。とっくに意味を成していない下着を剥ぎ取った瞬間、濃い雌のにおいがした。陰裂をなでると、くちゃ、と濡れた音がして、恥ずかしさに彼女が目を潤ませる。こんなのは耐えられない。好きなひとの前で、こんな、いやらしいのは……。
「や、やだ」
「ふ……、ほら」
はいった。指を入れると、きゅうきゅうときつく締めつけてくる。セックスはひさしぶりだから、余計に感じやすいのかもしれない。ひとりでしなかったわけではないだろうから、単純に降谷との行為に興奮しているのだろう。そんな反応をされると、とことん甘やかしてやりたくなる。
「うぁ、あん、ふるやさ」
「名前」
「れ、れぇさ、っあ、あ……」
ぎゅう、と切なく指を食い締めて達した彼女を見下ろし、青色が暗く獰猛に光った。険しい顔つきのまま、はー、と耐えるように呼吸を繰り返す。ぐねぐねと蠢く中はその先をねだっているようで、浅ましくもペニスが反応する。降谷もそろそろ限界だった。とっとと彼女のなかに突き入れて、今すぐ犯してやりたい。
彼女の部屋のベッドサイドチェストにも用意のあるスキンをつけ、ぬかるみへと一気に屹立を突き立てる。じゅぷん、と飛沫を散らしながら、彼女のなかが男の長いペニスを受け入れた。
「あっ、あ……!」
「んっ……挿れただけで……?」
ぬぷぷ、と奥まで入り込むといいところにあたったようで、全身をふるわせて彼女が大きくイッた。硬いペニスを味わうように、むっちりとした膣肉が健気に締めつけてくる。愛する男のかたちを忘れたわけではないだろうから、きっと必死に思い出しているのだろう。自分の下で乱れる女を見て、降谷はすっかり発情していた。
「あぅ、や、やだぁ……」
彼女はぼろぼろと泣きながら、しかし感じ入るのを止められなかった。恋人に抱かれて喜ばない人間がどこにいるというのだろう。拒絶の言葉を吐き出さないとどうにかなってしまいそうで、本心とは正反対の感情ばかりが口をついて出てくる。それも降谷にはぜんぶお見通しだから、額面通りには受け取らずにセックスを続ける。
「あっ、あぁ、あん、っあ!」
「っは……すご……」
じゅぷ、じゅぽ、と抜き挿しするたびにだらだらと愛液がこぼれ、彼女の尻やシーツに垂れてゆく。彼女は正常位が好きだから、両脚を抱えて陰毛が絡みつくほど深くペニスを埋め込んだ。だらしなく脚をひらいて、恥ずかしい格好をさせられて、ずこずこと奥を突くたびに甘ったるい声をあげつづけている。
「だめ、れ、さ、あ、や、またイッちゃ……」
びくん! と連続して絶頂を迎えている彼女は辛く、苦しそうだ。それでも、イくたびにとろりと顔が溶けて、咥えこんだままのペニスを夢中でしゃぶる。彼女のなかで育てられたそれは、男の欲望そのものだ。くぷ、ぐぷん、ぷちゅ、と白く泡立つ結合部を見ていると、勢いのままペニスがはじけそうになる。
「はは、こんなに、っ、いやらしくはめられて……」
「あ、あ、や、はめるのいや……っ」
「っん……なに、……よかった?」
「ん、うう……」
下品な物言いに興奮したのか、ギューッとペニスを締めつけながら、自ら昂ぶっているようだった。……ひとりでする時も、こんな感じなんだろうか。降谷の名前を呼ぶたびに、彼女の感度はどんどん上がってゆく。
「いっ、ちゃう、いっちゃ、れぇさ、いく、いくっ」
熱烈に吸いつく膣肉を擦り上げて、容赦なくペニスを叩きつける。もがく彼女の手をとってシーツに縫いとめると、いよいよ逃げ場がなくなって大きく背中をしならせた。その、何度目かの絶頂でひくついている膣の奥を、ごちゅ、ごちゅん、と突き上げる。重たい陰嚢がたぷたぷと音を立てながら揺れている。狭い膣肉にきゅっきゅっと細かくペニスを締めつけられ、精子がせり上がってくるのを感じた。
「っは、あー……」
「あ、っあ、あぁっ!」
愛する女のなかに射精したいと思うのは男の本能だと思い知らされる。男よりもずっと肉付きの薄い彼女に圧し掛かり、ふーっ、と荒く息を吐き出しながら、時間をかけてたっぷりと射精した。
「んっ……」
ペニスを挿入したままくちづけを交わすと、彼女の脚が男を引き寄せた。抱き合ったままの状態で、精液を馴染ませるように腰を揺らす。たった数ミリの薄い膜が煩わしくて仕方なかった。
呼吸が落ち着いたタイミングでペニスを引き抜き、ぬらぬらと光っているスキンを外す。先端に、どろりとした精子が溜まっているのが見えた。ひさしぶりのセックスで、何より興奮したからか量が多い。先を縛りながら、彼女のなかに入っていた時の感覚を思い出す。射精を促そうとぎゅーっと膣が収縮して、はやくはやくとその先をねだっていた。男を求めて降りてきた子宮に精液を注いだら、彼女はまた泣いてしまうだろうか。……泣いちゃうだろうなあ。でも、泣き顔もいじらしくてかわいいから、降谷は自分のなかに渦巻くうす暗い欲求を必死に隠した。この嵐のような、内から湧き上がる激情を、愛と呼ぶのだと信じている。
2019.01.20 -> 2020.11.22
土曜日のからさわぎ
まじめだなあ、というのが、降谷零という男に対しての感想だった。
彼女がふまじめなのではなく、男がまじめすぎるのだ。今日だってせっかくの休日だというのに、普段どおりの時間に起きて忙しそうにしている。いつもより遅い時間にアラームを設定したり、何ならアラームをかけなくたっていい。それまで眠りこけたり二度寝をしたりなんかするのが週末の醍醐味ではないのだろうか。
うっすらと目を開けた彼女は、毛布にくるまりながら同居人が動き回る音を聞いていた。おそらく彼女が起きるすこし前に、ベッドを抜け出したのだろう。隣にいないのをさみしく思ったが、体温がまだ残っている。しばらく耳を澄ませていると、そのうちにバスルームのほうからシャワーの音が聞こえてきた。
自分以外のだれかが家にいるのは不思議な感覚で、はじめのうちは慣れないことだらけだったふたり暮らしも、今となってはずいぶんと落ち着いて、安心できるものになっていた。
十分もしないうちにシャワーの音は止まり、今度はぱたぱたというスリッパの音が聞こえてくる。彼は物音を立てずに生活するのが癖らしく、何度かおどろかされることもあったけれど、スリッパの音までは消しきれないようでそれがなんだかおかしかった。次に向かったのはきっとキッチンだろう。彼女の部屋からキッチンは離れているので、さすがに音はもう聞こえてこない。それでも、彼がそこで生活を営んでいる心地よさにまどろんでいるうちに、いつのまにかふたたび眠りに落ちていた。
次に意識が浮上したのは、夢うつつの状態でシーツのうえをさまよっている時だった。
「なあ。朝ごはん、できたけど」
「ううん……」
気持ちよく眠っていたのでむっとしながら毛布をかぶりなおしたが、男はさして気にしない様子で話をつづける。
「今日出掛けるって言ってただろ」
「……夕方からだもん……」
「あ、そ。俺もちょっと出てくるから、戸締まりしておけよ」
「えっ。今日休みじゃなかった?」
「休みだよ。でも予定くらいあってもいいだろ」
「そっか……そうだよね」
彼女はずるずると起き上がり、そこでようやく降谷のほうを向いた。スーツじゃないところを見ると、どうやら休日出勤、ではないらしい。実はそうなんじゃないかと思っていたので、すこし安心した。そのまま踵を返した男の背中に、続けざまに問いかける。
「もう行くの?」
「ああ。そんなに遅くならないけど。きみも帰りの時間がわかったら連絡してくれ」
「はーい」
そのままぺたぺたと彼の後ろを追いかけ、玄関までついて行く。話しているうちに目が覚めてきたので、そろそろ起きることにした。
「行ってらっしゃい」
見送りにきたのは気まぐれで、いつもはされる立場だったから、今日くらいはする側にまわってみようと思ったのだ。彼はほんのすこし目を見開いて、それから、嬉しそうに「行ってきます」とほほ笑んだ。いいかげん慣れろと言われるのだが、寝起きにイケメンの笑顔はまぶしい。ハートを鷲掴みにされたまま、その足でリビングへと向かう。
降谷が用意してくれた朝食――ホットケーキにオムレツ、ベーコン、チーズとトマトのサラダ――はさながらおしゃれなカフェのメニューのようで、感心しながらのろのろと口に運ぶ。ホットケーキの生地にじゅわりと溶けたバターは、焼いてすぐに染み込ませておいてくれたのだろう。温め直したコーヒーといっしょに、少しずつ切り分けては食べ進めていく。
今日は夕方から、大学時代の同級生らと会うことになっていた。今でも連絡を取り合っている数少ない友人で、顔を合わせるのはひさしぶりだった。約束の時間は遠く、他に用事もなかったので、そのままだらだらと家事をこなし、洗濯物を干し終えてから慌てて化粧をして家を出てきた。
金曜の夜とは違う騒がしさが土曜の繁華街にはあって、どこもかしこも人の波であふれかえっていた。友人たちとは駅で待ち合わせて、そこから予約していたお店へと移動した。
学生の頃はよく大衆向けの居酒屋で集まっていたけれど、大人になってからは、こじゃれたレストランやバーにも行くようになった。どちらがいいというわけではなく、選択肢が増えただけのことで、それは生活を豊かにしてくれた。
お店はいつも持ち回りで決めることになっていた。今回は友人が見つけてくれたリストランテで、なんでも生ハムが絶品なのだという。彼女たちはめいめいワインを頼み、かちんとグラスを鳴らしてから、会っていないあいだの話に花を咲かせた。仕事の愚痴や、最近観た映画、新しく見つけたパティスリー、この前結婚した芸能人について。彼女の苦手な――というより、何を話したらいいのかわからないし、彼について話せることはとても少ないのだ――色恋の話は、評判どおりの生ハムをつまみながらそれとなくかわした。だからかもしれない。誤魔化すようにグラスに手を伸ばしつづけた結果、いつもよりも早いペースで飲んでいたようで、ほどなくして全身に酔いがまわった。ひさしぶりに楽しくお酒を飲んだので、気分がふわふわする。いい日で、いい夜だ。
そろそろ夜の十時になろうという頃、三人で店を出た。夜風に当たりながら歩いているうちに酔いも醒めてきて、ほとんどくせみたいに取り出したスマートフォンに、数件の通知が入っていることに気がついた。
「……あ」
「どうしたの?」
「ちょっと……連絡きてて」
降谷からメッセージが届いていたのはちょうど一時間ほど前だ。友人と食事に行くことは前もって伝えてあったので、帰宅時間を確認する旨のみじかい文章が目に入る。もともとこちらから連絡するつもりでいたし、普段はわざわざそんなことは聞いてこないのに、何か用でもあったのだろうか。友人にことわってから、すこし離れたところで電話のアイコンをタップする。
もしかしたら出ないかもしれない、という考えは数コールのうちにかき消された。名前を呼ぶ声が聞こえて、向こうの空気が緩まるのがわかる。
『終わったのか』
「うん。これから帰るけど、どうしたの?」
『迎えに行こうか?』
「えっ?」
思ってもみなかった提案に、思わず声が上擦った。家にいるのなら、わざわざ来てもらうのは申し訳ないし、少し待つことになる。このまま電車で帰ったほうが早いだろう。迷っているのが伝わったのか、電話口から笑い声が聞こえてくる。
『まだ外だから大丈夫』
「じゃあ……お願いします」
居場所を伝えると、どうやら彼はあと十分ほどで着くらしい。近くにいたのはラッキーだ。駅のロータリーで待つように言われたので、通話を終え、待ってくれていたふたりに声をかける。
「お待たせ。ごめんね」
「ううん。電話、大丈夫だった?」
「そのことなんだけど……あの、ふたりとも、送ってくれるって」
「はっ?」
「ええ?」
おどろいた彼女たちの声が重なる。それもそうだろう。話題に上がることはあっても、意図的に避けるうちにそれ以上は聞かれなくなった。それが、まさか今日会うことになるなんて、彼女自身思ってもみなかった。
やがて耳慣れたエンジンの音が聞こえてきて、目の前に白いスポーツカーが停車する。おそるおそるといった様子のふたりに、彼女がどうぞ、と乗るのを促した。
「お邪魔します……」
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
「初めまして!」
さっきまであんなにお喋りだったのに、後部座席に座ったとたん、ふたりはめっきり静かになってしまった。助手席に乗りこみ、男に友人たちを紹介する。
「前に話したでしょ。大学の時の友達」
「ああ。いつもお世話になってます」
「いえっ、こちらこそ。ね?」
「う、うん!」
にこにこと人当たりのよい笑みを浮かべる彼は、彼女が初めて男と出会った時の顔をしている。違う名前のひと。完全に余所行きの態度だ。今までにも何度か目にしているけれど、素の彼を知ってしまった今では違和感しかない。そんなことは口が裂けてもいえないので、ときおりナビを挟みながら、余計なことは言わないようにする。ひとりは近くだったので先に送り届け、車内は三人になった。
「えっと、お仕事、何してるんですか?」
「公務員です。区役所で働いてます」
「仕事、忙しいって聞きましたけど、大変なんですか?」
一瞬、男の視線がちらりと彼女へ向けられ、それからすぐに前を見る。
「部署にもよりますが、僕のところは住民の方といっしょに活動することも多いので、土日もけっこう返上してますね。あとで休みは取れるんですけど」
淀みなく答える男の、ハンドルを握る手に迷いはない。右足でアクセルペダルを踏んだまま、夜の東都をすべるように進んでゆく。男の説明に納得したようで、そうなんですね、と呟いたきり、そこで会話は途切れた。
「家、このあたりですか?」
「あ、はい。もうちょっと行ったところです」
そうしてしばらく車を走らせ、家の前でもうひとりの友人も降ろしてとうとうふたりきりになると、彼女はふーっと息を吐き出した。後部座席の友人たちと同じように、自分も緊張していたらしい。
「……何あれ。猫被りすぎじゃない?」
「何の話です?」
「それ!」
「はは、そういう設定だからな。ウケもいいし」
そりゃあ、自分だって見てくれに騙されてふらふらと引き寄せられたので、それ以上は口を噤んだ。物腰のやわらかな、やさしい男だと思ったら大間違いだ。
「嫌いじゃないだろ」
「…………」
どちらがタイプかと聞かれると、実は返答に迷う。温厚な〈安室さん〉もくだけた態度の〈降谷さん〉も、彼女の好みではある。たぶん、ギャップに弱いせいだろう。彼はこちらをときめかせるのがとても上手い。
「そういえば、なんで連絡くれたの?」
「そりゃあ、こんな時間まで外で飲んでたら迎えに来るだろ」
「ええー、そんなに飲んでないと思うけど……でもいっしょに帰れてうれしい。ありがとう」
降谷にしてみれば、アルコールの入った恋人が夜にひとりで出歩くことを心配していたのだけれど、彼女はそうは受け取ってくれなかったようだ。へらりと笑っている姿を見て、気づかれないようにため息をつく。友人と一緒にいるとはいえ、ナンパの類に声をかけられたり変な男に捕まったりするところは想像したくなかった。助手席で機嫌よさそうにしている彼女は、降谷の思惑を知らない。きっと彼女が思っている以上に、男は彼女のことを大事にしている。もうすこし自惚れてもいいくらいだ。
やがて見知った景色が窓の外に流れてくると、彼女はきらきらと輝く街に視線を移していた。ふたりの家に着くまで、あとすこし。
2019.01.20 -> 2020.11.22
おやすみ日曜日
カーテンのすきまからこぼれる陽光を受け、ベッドのうえで男が身じろぎをした。きちんと閉めなかったのだろうか。自分が閉め忘れることはないだろうから、きっと彼女だろう。たしかに昨日は部屋に入ったと言っていたけれど、眠る時は暗かったから、まったくわからなかった。
ふっと眠りから覚め、枕元のスマートフォンを手に取るよりもさきに、シーツに自分以外の体温があることに気がついた。隣には、気持ちよさそうに眠っている女が見える。……昨晩は渋る彼女を連れ込んで、ひさしぶりにいっしょに寝たのだった。
なんでも、ふたりで眠るのも、それ以上のことも散々しているというのに、いまだに「緊張して寝れない!」のだという。降谷としてはただ眠るだけのつもりだったのだけれど、そういうこと――セックスに及ぶことをおそれて、疑っているようだった。行為自体がいやなのではなく、するなら身なりを整えたい、というのが彼女の言い分だ。熱心に肌の手入れをしたり下着に気を遣ったりしているのは、そういう理由らしかった。
降谷に言わせれば、どんな格好であれかわいいことには違いないのだけれど、それとは別に、自分のためにあれこれしているのを見るのは悪くない。彼女が自ら抱かれるための用意をしてくれているのだから、願ったり叶ったりだ。そうやって誑かしてベッドに誘うこともあるけれど、昨晩はただ純粋に彼女と眠りたかっただけなので、そう伝えるとわかりやすく警戒心をゆるめた。
スマートフォンのディスプレイに表示された時刻は午前八時すぎ。男にとってはもう起きているはずの時間で、休みの日の彼女はまだ夢のなかにいる頃だ。現に、降谷の横ですうすうと寝息をたてる彼女は、とてもよく眠っている。こんなに熱心に見つめられても目を覚まさないのだから、よほど居心地がいいのだろう。
肌触りのいい寝間着も、ふわふわの毛布も、ふたりで選んだものだ。恥ずかしくて絶対人に言えない、と彼女は言っていたけれど、実は寝間着は色違いのものを着ている。いっしょに生活をはじめるにあたって買い出しに行った先で、一時のテンションに身を任せて購入を決めたのだ。お揃いなのはこの一着だけなのでタイミングが合うことはあまりないが、お風呂上がりに同じものを着ているのを見つけると、どちらからともなく笑った。今日は残念ながら、別々の寝間着だ。そんなやりとりを思い出して、男がかすかな笑みを浮かべる。
名残惜しいが、そろそろ起きなければ。今日は一日オフで、緊急の用事が入らなければ家でゆっくり彼女と過ごせるはずだ。もう喧嘩はしたくないので、最近はなるべく部下に仕事を振るようにしている。
本当はこのまま彼女といっしょに朝寝をしたいところだけれど、からだを動かしていないと落ち着かない性分の男は、かわいい恋人を置いてそっとベッドを抜け出そうとした。
「……ふるやさん……?」
男の名前を呼ぶタイミングの絶妙さに、降谷は舌を巻いた。うん? とつとめて優しい声でベッドのなかの彼女に向き直ると、とろりと蕩けた、まだ眠たげなまなこがこちらを見ていた。そのくせ、手はしっかりと、男の寝間着の裾を掴んでいる。無意識なのか、わざとやっているのか。
「起きるの……?」
「洗濯物、溜まってただろ」
「天気いいし、すぐ乾きそうだね」
「あと、朝ごはん。昨日のペンネ、グラタンにしようと思って」
「おいしそう。作るの手伝うね」
「……俺に二度寝しろって?」
「だって休みなんでしょ?」
へへ、と彼女が笑うのを見て、敵わないな、と思う。起きるのはあきらめてふたたびベッドに潜りこむと、朝の空気ですこしばかり冷えたからだを彼女のほうへとすり寄せる。女性らしい、まろみのあるからだがあやすように男を抱きしめる。やわらかな胸元に顔を埋めると、トットットッと心臓が脈打っているのがわかった。
幸福のかたちを描くなら、きっとこうだと思う。自分には一生縁のない、夢で終わるべきだったもの。
彼女を手放したくない、と。自分が思うのと同じだけの気持ちで彼女に思っていてほしい、と。いつからかそんなことを考えるようになった。あたたかくてちいさくて、守るべき存在。だけど、降谷のいちばんは彼女ではない。降谷は自分のすべてを、彼女のためだけに捧げることができない。
それでも。
自分が彼女を選び、彼女が自分を選んでくれたのなら、それでじゅうぶんだ。俺じゃなきゃいけなくて、君じゃなきゃだめなことがたくさんある。その思いが同じだったらいい。同じだけの重さで、いっしょに生きてゆきたい。
目が覚めたら、と夢うつつの狭間で考える。
何時になるかわからないけれど、遅めの朝食をつくって、くだらないことを話しながら食べよう。そのあとはふたりで洗濯をして、一仕事終えたあとは昼寝をむさぼってもいい。次に起きたら、録画しておいた映画を観るのはどうだろう。きっと楽しい日曜日になる。
しだいに眠気が押し寄せてきて、ふたたび彼女が眠るのとほとんど同時に、降谷も意識を手放した。
いくつもの夜を越え、そうしてまた朝がきて、あたらしい一週間がはじまる。
2019.01.20 -> 2020.11.22
酔っぱらイエスタデー
帰りが遅くなる、といわれたので、今日は帰ってこれるのか、と素直に感心した。今日というのは日付が変わるまでのことではなく、彼いわく「帰ってくるまでが今日」らしい。家に顔を出すだけでもすごいのだから、帰ってくるのは奇跡に近い。とはいえ、会えるかどうかはまた別の話だ。定時で帰ろうが真夜中の帰宅になろうが、今日であることに変わりはない。けれど、宣言したからには、なにかしらの根拠があってのことだろう。明日の朝はいっしょにご飯を食べられるかもしれないと思いながら、はーいと気のない返事をしたのが今朝のこと。
そして彼は予告したとおり、きちんと家に帰ってきた。それも日付の変わる前に。家を出てから二十四時間と経たないうちに!
どうせ帰宅は深夜になるだろうと踏んでいたので、彼女は油断しきった格好で自宅のリビングにいた。夕飯を食べお風呂に入り、あとはもう寝るだけである。いつ眠ってしまってもいいように、すでに歯磨きも済ませていた。テレビを見ながらスマートフォンをさわり、ソファでだらだらと過ごしている最中の帰宅だった。
「おかえり。早かったね」
とはいえ午後十一時だ。早いか遅いかでいえば、おそらく遅いだろう。だが、この家のなかでは早いほうだ。感覚が麻痺しているなあと感じた。
朝と同じスーツを着た男と目が合う。スーツがくたびれているように見えるのは、一週間分の疲れが溜まっているからだろうか。ふらふらとやってきた男はスマホに視線を戻した彼女の隣に座ると、突然ごろんと横になった。
「えっ」
びっくりしてスマホを落としそうになったが、間一髪のところで握りしめた。スーツを着たまま、彼女の膝枕を堪能している。こんな恋人は、いままでに一度だって見たことがなかった。ショートパンツから伸びたむき出しの太ももに当たる金髪が、知らない他人のもののように思われた。
彼女はふと湧いた好奇心から、スマホを持っていないほうの手でおそるおそる髪を撫でてみた。意外にも嫌がられなかったので、煙草くさい男の髪を撫で続ける。飲み会の席に喫煙者でもいたのだろうか。最近は分煙しているお店も多いが、匂いが移ったのかもしれない。上目遣いで見上げられるとこんな感じなのか、と思いながら、平静を装って彼を見つめかえす。
しばらくすると男が勢いよく起き上がり、彼女の膝の上から退いた。何事かと驚いていると、男の口からは謝罪の言葉が出てきた。
「っ、悪い」
「なん……えっ、なに?」
「酔ってた。忘れてくれ」
「酔ってるとそうなっちゃうの?」
かわいい、と思ったが、機嫌を損ねたくないので口には出さないでおく。あの彼が、誰にでもこうするとは思えないから、家に帰ってきて気が緩んだのだろう。緊張を伴う場だったのかもしれない。
「シャワー浴びて寝る」
「え! まってまって!」
「……何」
「今日、いっしょに寝ようよ」
「…………」
無言の圧がすごかったが、拒まれなかったのでお風呂上がりの彼を寝室で待つことにした。深夜に聞こえるシャワーの音にうとうとしていると、ようやく出てきた彼が髪を乾かすのもそこそこに思いっきり彼女を抱きしめて横になった。やはり酔うと甘えたくなるらしい。髪についた水滴は不快で、加減を知らない腕の力は少しばかり苦しかったが、物珍しさのほうが勝ったのでどきどきしながら眠りについた。
翌朝、きちんといつも通りに目覚めた降谷は、彼女よりもずっと早くベッドを抜け出した。朝食の席で向かい合うと、顔色が優れないことに気づく。
「二日酔い?」
「多分な」
「ウコン飲まなかったの?」
低い声が不機嫌そうに「飲んでない」と告げる。飲んでいる姿は想像できなかったし、今までも無縁だったのだろう。器に盛られた量は普段よりも少なかったが、飲み会明けの和食は身体にしみるに違いない。
「昨日は悪かった」
「え」
謝られるとは思っていなかったし、謝られるようなおぼえもない。驚いて顔を上げると、降谷はばつが悪そうにしていた。酔っ払って帰ってきたことだろうか。
「別に謝らなくていいよ。レアなの見れたし」
まだまだ知らない降谷さんがいるなあ、というのが正直な感想だった。かっこわるいところも酔っ払ったところも、もっと見せてくれたらいいのに。言うと彼はますます気を遣いそうだったので、へらりと笑うと怪訝そうに眉をひそめた。昨日の姿をかわいいと思ったのは、やっぱり内緒にしておこう。
2020.11.22
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EVENT
未定
BOOK
2023.12.17発行/Sweetest/文庫/P28/400円(サンプル)
フロマージュ
2023.07.30発行/不純物/文庫/P60/600円(サンプル)
フロマージュ
2023.06.25発行/二人の彼/R18/文庫/P78/700円(サンプル)
フロマージュ
2022.12.11発行/エフェメラと燐光/R18/文庫/P40/500円(サンプル)
フロマージュ
2022.07.23発行/ルイ・エ・レイ/文庫/P250/2000円(サンプル)
フロマージュ
SOLD OUT
2020.11.22発行/プレイルーム/R18/文庫/P48/500円(サンプル)
2020.11.22発行/A long weekend/R18/文庫/P348/2500円(サンプル)
2020.02.23発行/明日は寒いらしい/文庫/P48/500円(サンプル)
2019.08.18発行/カクテルパーティ/R18/文庫/P74/600円(サンプル)
2019.01.20発行/明日の恋人/R18/文庫/P82/700円(サンプル)
2018.09.17発行/MILK/R18/文庫/P68/500円(サンプル)
2018.09.17発行/BitterSweet/文庫/P136/1000円(サンプル)
Memo
2023.12.11
結局1冊しか出せなかったけど新刊あります!リボンを付けてギフト風にするので、当日作業します!
2023.11.11
去年の12月に夢女として結婚指輪を買ったのですが、そのときに冗談で「来年は結婚式でもやるか…」と言ったのを先月現実にしてきました。スタジオを借りてのフォトウエディングでした。
今は12月の原稿中なので、それが落ち着いたらまとめてまた記事にしたいと思ってます。色んな方に助けていただいて楽しい思い出になりました!
ところで新刊2冊出したいとか言ってたけど、フォトウエディングの準備で何もできてないので、どうにか頑張って1冊だけでも出したい…
2023.08.02
7/30のイベントもお疲れ様でした!3日連続よりも2ヶ月連続のほうがつらかった。なんとか今回も新刊を出せてよかったです。
今回の表紙は、イラストを下居さんに、ロゴをエイコにお願いしました。配置は私のほうでやったんですが、表1のデザインの都合でいただいた表紙絵をバン!と配置できず、せっかくならもっと大きい絵で見たい…となりクリアファイルを作る許可をいただきノベルティにしてみました。ドピコサークルだからただの赤字です。でも下居さんの絵でクリアファイルがほしかったので…(本当はポスカにしようとしてたんですが、耐久性とサイズのことを考えてクリアファイルに)
あと、表紙の紙はずっと使いたかったルミネッセンスのマキシマムホワイトです。名前のとおりとても白くて、その存在を知ってからずっと使う日を夢見てました。本当に白い。表紙との相性ばっちりでにんまりしました。これだから同人誌を作るの楽しいよ~!
次のイベントは12月で、ちょっと間が空くので、新刊2冊出したい。言うだけタダ。去年諦めた萩松サンド本出したい。
2023.06.27
6/25のイベントお疲れ様でした!本をお手に取って下さった方、スペースに来て下さった方、どうもありがとうございました。通販予約して下さった方もありがとう!今回、印刷費の値上げ等で今までの価格設定より高めで心苦しかったですが、それでも手に取っていただき恐縮です。
いつもスペースにいても暇な時間が多いのですが、今回は自分の手で本を頒布することができて、来て下さった方のお顔を見ることができて、ありがたいことにスペースにいる時間は暇だな~と思うことなくイベントの時間を過ごすことができました。それでも不在の間に訪ねて下さった方がいることを知り、お会いできなかったことを悔やんでおります。会いたかった~!!
昨年のこの時期と同様、セクゾのアルバムを聴きながら原稿をしていました。セクゾまじで良すぎるよ~~~イベントでPurple Rain流してほしい。ぶち上がりたい。初心LOVEは流れてましたね。
今年はあと、来月のイベント(申し込み済み)と、12月に出たいな~と目論んでおります。毎月イベントに出るのちょっと久しぶりだからゾクゾクするな。昔、5/3~5で毎日イベントに出てたことがあるので、それに比べたら…と思うことにしています。
本当は夏インテの警学オンリー(あったよね!?)にも出たかったけど、さすがに3ヶ月連続新刊は無理&夏インテも暑さ的に無理なので、ちょっとゆっくり過ごしたいと思います。